独楽ログ〜こまログ〜

45歳、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証。

映画のフライヤーは捨てません

近頃の、親切すぎる予告編に反対だ

 映画館で観る、近日公開作の予告、あれほど楽しいものって、ちょっとなくないですか? 予告だけ観てると、ほとんどどんな映画も(いや、そうでもないか…)、傑作の予感がする。おいしいところだけつぎはぎして、期待感高めるナレーションが入り、そして、公開は来月…。もっのすごく観たくなる。

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 なので、映画館の楽しみは、本編+予告編なので、予告に15分くらいさいても構わない…などと思っていたのだが、そんなお楽しみにも近頃変化が。ここ数年、1本の予告がすごく長い。そして起承転結の起承転まで丁寧に語り尽くす予告が増えている。昔は起承、なんなら起の部分だけをじゃーん、と見せて、ではお楽しみ!てな感じだったと思うのだが、今って、すごく細かくあらすじ教えてくれるんですよね。誰かと誰かがこうやって知り合ったけど、男にはこんな秘密があって、女にはこんな性癖があって、ある日突然それが誤解されて、誰かが死んで云々。テレビの映画紹介コーナーなども同じだけど、「じゃあもう観なくていいか」と思わざるを得ない予告が多すぎる! 

 映画はなるべく、なんにも情報を入れないで観たい。だって、なるべく驚きたいから。そう考える人って、今は少数派なんでしょうか?

 誰が撮ってて、誰が出演してて、舞台はここ。そんな程度の、え?なになになに!?とわくわくする情報をちょっと欲しいだけなんだけど…。

 

かわりに、新作情報はフライヤーで

  だからもう、映画館の予告編はあんまり観ないようにしてる。そんな話を友人にしたら、

「え? じゃあ、次回作の情報はどうやって得るの?」と聞かれ、「チラシ」と私は答えました。チラシっていうか…フライヤー? チラシって言ったらもう恥ずかしいのかな。ではフライヤーで統一。映画を見終わると、フライヤーの棚に行き、めぼしいものをごっそりもって帰り、電車のなかで次観るものを検討する。これも楽しいのだけど、では観終わったあと、どうするのか。結構大量のフライヤー、捨てるのか。捨てると、観に行くの忘れがちだから大事にとっておく。でもとっておいたことも忘れて、結局、観に行かない。あーあ。

 

そして、そのフライヤーをブックカバーにする!

 そういうことが起こりがちですが、最近、このフライヤーを活用して、ブックカバーにすることにしました。貧乏くさく、かつ、メリット山盛りの素晴らしい活用法です。それは、あとで売りやすいよう、なるべくきれいに本を読むためと、観たい映画を覚えておけるようにと、すでに観てよかった映画を思い出してにまにまするため、そして、フライヤーさんの能力を最大限活かすため。

 厚く丈夫な紙で作られたフライヤーは、ブックカバーとしてなかなか優秀です。実は、近頃ネットで本を買ってばかりいるため、カバーがもらえない、というのが軽い悩みでした。チラシカバー(フライヤーカバーよりゴロがよい)を思いついたとき、これはいろんな方面の悩みを一度に解決する、素晴らしいアイデアなのでは、と自画自賛しました。

  風呂でも本を読むため、防水?くらいのつるつるの紙で作られたカバーはとてもありがたい。そして、毎日眺めていることで、「早く観に行かなくちゃ」と、その作品の存在を脳裏に刻むことができる。すでに観た、そしてとてもよかった映画の場合は、何度も思い出を反芻できて心の健康によい。そして、いつもなら1回、数十秒眺めただけで終わってしまうフライヤーのはかない命を、ブックカバーにすることで、数日~数週間、の充実した長い人生に変えることができる。

  

 なおよいのは、展覧会のフライヤー

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⇧2年くらい使ってるホドラーのカバー。いい絵だ。国立西洋美術館クラーナハ展は終了まであと1か月を切ってしまった。毎日本を眺めては、早くいかないととあせる。

 

 美術館の展覧会のフライヤーも同様です。こちらは大判のことも多いので、ハードカバーに活躍します。…あ、普通のB5(だよね?)の映画フライヤーでハードカバーを包むときは、2枚使います。セロテープで裏から貼ります! これもまた趣あってよいものです。

 展覧会のフライヤーは、いわゆる「名画」「名品」を全面的に打ち出していることが多いので、カバーとしても素敵なものに仕上がることが多いです。写真のフェルディナントホドラーは、あまりにもこの人の絵とこのフライヤーが好きで、一度読み終わっても捨てられず、もう何冊も使いまわして、結構ボロボロになってきました。

 チラシで工作するようになったら、いよいよ本格的なおばさんの始まりかなあ、とも思いますが、まあ、しょうがないね。おばさんだから。

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⇧1枚目の写真、背表紙を広げるとこんなん。「神聖なる一族24人の娘たち」はロシア映画。あまりにもかわいいカバーになってしまった。でも見逃したけど…。ドローンを使ったハイテク泥沼戦争映画、「アイ イン ザ スカイ」はドラマ『ブレイキングバッド』のジェシーが出ている、年内必視作品。これは見逃せない。超おもしろい、と噂です。

お菓子だって、ラ・トラです

“ただの”塩キャラメルビスケット

 

 また、「ただのクッキー」を作った。粉と砂糖とバターと牛乳(!)だけのレシピで、でも冷凍庫にキャラメルソースが残っていたので、入れてみた。

 

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 ↑キャラメルのせいか、いつもよりダークなブラウン。塩も多めに入れて、甘じょっぱく、普通で、なつかしくて、極上の味わい。よしよし、成功。

 もとのレシピは徳永久美子さんの「パンとお菓子の本」にある「花形ビスケット」。なによりこの田舎っぽい名前が可愛らしくて、たまらない。名前に惹かれて作ったといってもいい。徳永さんは、パリのブランジェリー「ポワラーヌ」のビスケットをイメージして作ったのだとか。「パンを焼いたあとの、熱の落ちたオーブンで焼いたような」、なので「少し硬めの歯ごたえ、焼きムラも少々。粉の味わいは上々」というこの素敵な一文も、焼成欲をかきたてる。

「パン屋のクッキー」だからか、200度で9分、という焼き菓子らしからぬ温度&時間設定だ。何度作ってもこの温度と時間ではうまくできないので、200度9分のあと、160~170度に落としてさらに10分くらい焼く。「まわりがきつね色、中は白っぽい」が、焼き上がりの目安なのだが、私の場合、これだと、どうにも「芯まで焼ききれてない」仕上がりになってしまうので、強引なくらい焼いてがっつりと火を通すのが好み。色は全面濃いきつね色でOK。

 

果てしない「焼き」の旅

 

 これは本当に好みだと思う。他の方のレシピでも、指示通りの色、温度、時間、見た目、では、自分には「焼き足りない」と思うことが多いのだ。風味は多少とんでもいい、かりっ、さくっ、と極上の食感が欲しい。好みの焼き加減は、ときかれたら「よく焼きで!」。なんなら、焦げたものさえ、わりとおいしいと思ってしまうしなあ…。

 昔、どこかのシェフが「なにより難しいのは“焼き”です」と言っていて、「そうなの? そんなに難しいかな?」などと思っていたが、こういう経験を重ねると、つくづくと「焼きって難しい~!」と思う。

 そもそも人によって正解が違うのだ。考えて見れば、ステーキだって3種類も焼き加減がある。だから自分の正解を探して、何通りも実験するしかない。表面はがりっと焼けて、でもなかはやや生っぽいほうがいいとか、表面も奥も同じような火通りがいいとか、「焼き方」にも何通りもある。しかも焼き上がり1時間後と、翌日と、3日後はそれぞれ味が変わる。すべての時間帯でおいしいと思える加減を探さなければならない。なかなか途方もない旅である。

 

バゲット以外もすごかった

 

 このクッキーに関しては、「徹底的に乾燥させる」で私の旅はほぼ終わったのでいいのだが、これがすごくおいしい(と自己申告)もうひとつの理由は、「ラ・トラディション・フランセーズ」という粉を使っているからだ。

 

 

 バゲットがうまいことで有名なビストロ「VIRON」で使っている粉。いわゆるフランスパン用粉、準強力粉である。最初は私もここのバゲットがどうにも好きで、家でも作ってみたくて粉を買った。バゲットはちっともうまくできないまま日が過ぎていったのだが、あるとき店のデザートの杏タルトを食べて、その台のうまさに衝撃を受けた。えー、なんでこんなにおいしいの!? ネットや本でいろいろ調べたら、「パンだけでなく菓子もこの粉で焼いている」という一文を発見。うちでもタルトや焼き菓子にこの粉を使うようになった。…なんだろう、味が濃い、としか言いようがないのだが、味が濃くて、しみじみとおいしさが舌に残るのだ。

 たまに普通の薄力粉のほうがいいなと思うものもあるが、だいたいの焼き菓子はおいしくできる。なかでもパート・シュクレ(タルトに使うクッキー生地)や、この花形ビスケット、ショートブレッドなんかは本当においしくできる。はっきり言って高い粉なのだが、「まあ、洋服買うよりは安い」と呪文を唱えて----この10年、なにか高いものを買うときはいつもこれを唱える----購入する。

 

 

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↑買うときはいつも大阪の「粉やの息子」さんで。安い。めっちゃ、いろんな粉がある。送料も安い。…が、その理由。「グリストミル」が1kg単位で変えたらあとはもう文句なし、なのだが……。

 

 

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↑昔、四苦八苦して構成を考えた栗のタルト。中も栗を茹でて生クリームと少量の砂糖であえたペーストを絞り、台とペーストの合間にはアクセントのラズベリージャムをしき、さらに苦闘を重ねて作った渋皮煮をのせ、キャラメリゼしたナッツをちらした、ぜいぜいはあはあ菓子。もういっぺん食べたいのだが、面倒すぎてもう作れない…。

 

 ちなみに、ラ・トラでのバゲット作りは、いまだに成功していません。

どうあがいても、たとえどんなに素敵なルックスに焼きあがっても、割って食べれば

落胆あるのみ。気泡みっちりのパンしかできないんです…。

映画「トスカーナの贋作」

倦怠した日常がSF になる

 男は著名なエッセイストで、女はその読者。ふとしたことで会って話をする機会があった。話していたら、いつのまにかふたりの会話は、倦怠期の恋人のようなそれになり、さらには結婚10年以上の夫婦のようなにもなり、それがあまりに自然で、本人たちもその嘘の設定を本気で生きるようになり……。 

 え、本当は夫婦だったの? いや、単なる“夫婦ごっこ”? パラレルワールド?SF映画なの? いや、女の方が狂ってて、男はそれにつきあってあげてるとか? もしかしてその逆か?

 アッバス・キアロスタミの「トスカーナの贋作」はとても不思議な映画だ。ありきたりな中年男女のひとときの逢瀬。本当にありきたりな、倦怠しきった男女の会話が街を練り歩きながら、えんえんと続く。インテリで、理屈っぽくて、情の薄い男。立派な中年で、子供も大きくて、でもそんな現実を受け入れがたく、痛いほどはしゃぐ典型的な“おばさん”の女。

 男と女って、世界中どこでも、いつの時代でも、同じような繰り言を交わし続けるのだなあ、としみじみ思わせる他愛のない会話が、妄想と現実をごっちゃにした世界の上で展開する、というちぐはぐ感がたまらない。景色はトスカーナの街角。

 初対面の男女が、会話をするうちに熟年夫婦のふりをし始める。こんな設定、無理がありすぎるだろうと思うだろう。突拍子もなさすぎて、どうやって物語に入ればいいのか、と思うだろう。

 でも、観ている側はごくごく自然に、ぶつぶつ言い合いながら歩く夫婦(らしきもの)に同化していく。そうそう、結局こういう男って、肝心なときに愛のなさが出ちゃうんだよ、とか。ああ、おばさん、ここでクールに構えていれば、男になめられないのになあ、とか。ふたりの力関係にはらはらするし、このデートがきちんと楽しく終われるのかも心配だし、そして、そもそもこのふたりは結局なんなの?というところで、実にスリリングに時間がすぎる。

あくまでもそっと控えめに、神業

 男の講演会と、それを聞きに来た読者の女という、ごく普通の始まりから、ゆっくりと、異世界にうつっていく、この無理のない変態が実に心地よくて、こんなの誰にでもできる技じゃないなあ、さすがだなあ、とうならされる。すごく新しいことを、“日常の倦怠=中年夫婦の会話”をツールとして語っていくのだ。これ、結構とんでもないことだと思うのだが、ツールが日常的だから、作品からわきたつ凄みは控えめ。これみよがしなところなど微塵もない。すごいなあ。

 控えめで、その実凄まじい、それと同時に、実に美しい作品でもある。オープニングは講演会の、まだ話者の現れない演壇。マイクと壁が写っているだけ。でも、色といい質感といい、惚れ惚れするくらい美しくて、おお、この映画は面白そうだなあと、わくわくした。オープニングで、わくわくできる映画はだいたいおもしろい。…というか、最初のショットで、自分好みの作品なのかどうかわかる。このショットを提示して、「これはこんなシーンが素敵だと思ってる人間が作った物語です。どうです?」と監督から言われているような気がする。賛成できれば、だいたい最後まで楽しめる。

 

 それはさておき、この監督特有の、鮮やかでないのに鮮やかな、としか言えない不思議な色あい、登場人物がカメラの真正面から語りかけてくる、どきっとするアップ、物語と人物をなんども咀嚼させるような、スローなテンポ。なのに、緊張を途切れさせない進行…それらが、しみじみと愛おしい気持ちを起こさせる。ここに現れる物語と人間、風景。その溢れ出てきた愛おしい気持ちは、自分の日常にまで流れ込んできて、乾きはじめていたこちらの毎日も潤す。これぞフィクションの効用。

「友だちのうちはどこ?」というのはこの監督の代表作だが、これも素晴らしい映画だった。小さな村の小学校で、友達がノートを忘れていることに気づく少年。その友達はこのノートで宿題をしないと、明日先生に殴られるのだ。あせった少年は、友達にノートを届けようとするのだが、肝心の家がわからない。あっちで聞き、こっちで尋ね…しかし、いつのまにか日が暮れてしまう。

 まるで紙芝居のような筋書きなのだが、モノクロの画面のなか、さみしい、(おそらく)貧しい小学校、村、ジグザグの丘、そこを走り回る少年が、もうかわいくてたまらない。いったいどうやって友だちのうちを見つけられるのか、ノートは無事届けられるのか。画面から目が離せない。これも、小さな、ごく控えめな物語なのに、観ている側に手に汗握らせてしまう、かつ、なんともいえない気持ちを爆発させる作品だった。神業だった。

 そんなキアロスタミ監督も、2016年の7月に亡くなってしまった。こんな物語を生み出せる人の心のなかには、どんなもので溢れていたのだろう。畏れ多いような気持ちで遠いイランの国を思ってみたりもするが、偶然みつけた今作のインタビューには、神がかったような言葉はひとつもなかった。

 

「全ての台詞は、僕が現実の人生で見聞きしたことに影響を受けている。いつかアメリカにいる姉がイランに来たとき、『あなたの映画を1本も見たことない』と言うものだから、母と妹も家に呼んでみんなで僕の『風が吹くまま』(第56回ベネチア国際映画祭審査員グランプリ受賞)の上映会をしたんだ。見始めて3、4分で母がウトウトし始めて、僕が台所でお茶を片付けて部屋に戻ったときにはみんな寝ていた。それで僕がテレビを消すと、突然みんなが起きて『何で消すんだ!』って叫ぶんだ。

『誰も見てないから消したんだ』っていじけたら、みんな『でもすごくおもしろかったよ』なんて言うんだ。『そんなこと言って寝てただろ! 好きじゃないならそう言えばいいのに!」って怒ったら、みんなで口をそろえて「好きだ、好きだ」と言い張る。頭にきた僕は、もういくら頼まれても見せてやらないと心に決めた。その翌日、姉が突然『あなた昔、子どもと車に乗ってるとき運転しながらウトウトしたでしょ? あなたは子供を愛してなかったって言うの?』って僕を責めてきた。『だってすごく眠かったんだ』と答えたら、『私も昨日すごく眠かったの!』と開き直られたんだ。

このできごとはウィリアムの台詞にそのまま活かされているよ。でもこの話はこうして役に立ったから、やっぱり居眠りしちゃうことは決してそんなにひどいことじゃないよね(笑)」

 実に普通な、俗っぽい一面が垣間見れて、驚いたと同時にすこしほっとした。それにしても、チャーミングな人だ。

 原題の直訳は「認証された贋作」。同インタビュー内ではさらに、「手に届かない本物より、身近にあるコピーを大切にしようと思った」とも言っている。確かに、これを観ると、本物ってなんだっけ? 偽物って悪いのか? 自分にとっての本物はどれなんだろう?と、考えさせられる。それはつまり、自分が当たり前のように信じていた価値観が揺さぶられているということだ。だから、この日常的な作品に、どきどきはらはらするのだろうか。

 

真性のおばさんになったジュリエット・ビノシュ

 主役のジュリエット・ビノシュは、同インタビューによると、「彼女が、僕の映画に出ると言い張った」のだとか。カンヌ映画祭で主演女優賞を受賞したのだが、それも納得のすごい演技を披露している。ありふれた中年女性そのものの、活力と熟れた色気、図々しいけどかわいらしい、愚かな繰り言を言い募りながら、突如真実を言い当てたりもする……愛らしさと醜さのシーソーゲームのような主人公を実に自然に演じている。

 若い頃からおばさんぽかったけど、本当のおばさんになったら魅力爆発、が私が思うジュリエット像。もちろん、「ポン・ヌフの恋人」の頃のような神々しい可愛さはもうない。目も小さく萎んで、肌もたるみ、シワも多い。けれど、それがとても自然で、堂々としていて、静かな確信に満ちていて、なんともいい顔なのだ。自分のしてきたことを愛して、糧にしている、そういう顔をしている。

 まあでも、実際に会ったら、びっくりするほどきれいなんだろうなあ。

なにも書いてないレシピと、なんでも書いてあるレシピ

レシピにはほとんどなにも書いてない

 

 お菓子の本って、なにも書いてないんだ。

 …と、強く強く思ったのは、本気でお菓子を作り始めて、しばらくたったあと。初めて作って大成功、というわけにはなかなかいかず、どんなレシピでも大概それなりに試行錯誤が必要だった。何度作ってもうまくいかず、その原因がわからず、そしてレシピ本にはその手がかりになるようなことは何も書いてない、ということがたくさんあった。どうしてこの生地はこんなにもろもろするんだろう。これじゃボール状に丸められない。どうしてこの生地はこんなに液状化するの? これじゃ絶対膨らまないに決まってる。オーブンから取り出すのはすごく膨らんだとき? 膨らんだあと? 溶かしバターを入れると絶対分離するけど、いいのかな? …等々。

 ひとつのお菓子を上手に作るためには、それこそ10も20もコツがあって----それらは製菓の基本のこともあるし、その菓子だけに限ったコツのこともある----、全部きちんと守ってようやくパーフェクトに出来上がる。でも、そのコツのほとんどはレシピには書いてない。あらゆる製菓本を読み込んで、ググって、ようやくコツらしきものを会得して、なんとかうまくできるようになる、ということを繰り返して思ったのは、冒頭の言葉だった。

「お菓子のレシピには、なにも書いてない。そう思って取り組むべきなのだ」。

 

いっぱい書いてあると、誰も読まない

  最初の頃は、「なんも書いてないやんか!」と腹を立てていたのだが、だんだん理解を示すようになった。

 昔、女性誌で料理ページを担当していたのだが、その最初の仕事のとき。張り切って、基本のレシピのほか、料理家の先生に聞いた話を箇条書きの「コツ」にまとめて担当編集に送った。もちろん、全部入るとは思っていなかったけど、少しでもたくさんコツを入れてあげたい、だって、これを知っていれば確実に成功率が上がるから、と思って。鍋は直径18cm以上が作りやすい、だとか、えびは下処理のあと、きっちりペーパーで水分を取っておくこと、とか、ブロッコリーは茹でると水分が房にたまるから、蒸したほうがいいとか、そんなこと。「どこかページのすみにでも、入れられませんか?」と添えて送ったのだが、結果は1個も採用されなかった。理由は「いろいろ書いてあると読者は読む気をなくし、作る気も起こさないから」だった。

 そうかー。そうなのねー。そういうものなのねー。私はとっても驚いた。コツなんかいいから、読みやすくして。そしたら作るから。という人が主流だったのだ。

 この経験がけっこう忘れられなくて、だから、世の中のお菓子本のほとんどが、すっかすかであることについては、あきらめた。いっぱい詰まってると作る気にならないんだからしょうがない、と。上手に作れる秘密はどんなことでも聞きたい、というような人間は少数派なのだと。

 

1から10まで全部教えてほしい

 

 なので、長い間私は、疑問にぶつかるとイライラしながらまずググり、それから分厚いパティシェ用の製菓本から家庭用のお菓子本までかたっぱしから、大型書店で立ち読み、もしくは大枚はたいて買って読み漁り、私の知りたいことの答えがどこかに書いてないか探し続けた。

 そして、その答えのひとつがこの本だった。「ケーキ この人、この店の定番」。ひとりのシェフが、ひとつの菓子について、徹底的に語りながら、レシピを開陳する。どうしてこんな作り方になったのか、どんな味を目指しているのか、これをやるとどんな差が出るのか、手の動かし方、OKサインの出すタイミング、焼き加減の見極め方。もうすべて、徹底的に書いてある。聞き手も相当製菓に詳しい方のようで(だって柴田書店だもんね)、その菓子が、レシピが、通常とはどう違うのか、なにが一番の特徴なのか等しっかり書き込んである。

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 しかもひとつのアイテムを、いろんなシェフ(店)が作り比べる(別に競ってるわけではないが)構成になっているので、プリンならプリン、シュークリームならシュークリームで、それぞれのレシピを熟読することで、シェフの好みはもちろん、そのアイテム自体の本質も見えてきやすい。

 例えば、ガトーショコラなら、メレンゲをどのくらいまで泡立てると、軽いけど食べごたえも残る味わいになるのか。壊れやすいメレンゲを、上手に混ぜ込む手つきはどんなものなのか。使うチョコレートを、あえて主流のダークではなくスイートにしているのはなぜなのか、そして、そもそもそのシェフは、ガトーショコラをどんなお菓子だととらえていて、どんな味わいを目指しているのかetc。どのシェフも微に入り細に渡り語り尽くしてくれて、もうありがたいったらありゃしない。何度も何度も、「なるほどね~!」と言いながら読み返した。そして作った。すべての行程になぜそうするのか、の理由が書いてあるから、「なぜこんな手間を?」と疑問に思いながら作業する、というよくある出来事も起こらない。「こんな本がもっとあればいいのになあ」とよく思ったものだ。

 私の理想のレシピ本は、たぶんこれなのだと思う。本格的なシェフの豪華本もこれに負けないくらい細かく書いてあって、それらも愛読させてもらっているのだが、この本は、聞き手がいて、そのシェフだけでなく、たくさんのシェフ、そしてお菓子の全体を見渡しながら原稿を書いているという点で抜きん出ていると思う(だいたいのレシピ本は、シェフのひとり語りになっている)。今までにない視点がたくさんあるのだ。

 

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⇧パティスリータダシヤナギのレシピでつくったガトーショコラ。これ以上なくシンプルで、よけいな味のしない極上のガトーショコラだと思う。生クリームがやや泡立てすぎなのは残念…。

生地といちごとクリームの一体化って?

 例えば「ア・ポワン」(閉店!)のフレジェ。聞き手は「生クリームとイチゴ、ジェノワーズが口のなかで溶けるように一緒になり、後口がいい」と評して、「生クリームがかなり多く仕込まれているのに、くどさがないのが不思議だ」と書いている。その秘密は、日本の製菓業界では定番の、乳脂肪40%台の生クリームではなく、35%を使っているからだ、とシェフは明かす。しかし35%ではさらさらしすぎて保型性がないので、粉末ゼラチンの一種をほんのすこし加えて硬さを出しているのだとか。同時に濃厚さもほしいから、上にのせるクリームは47%を使っている。

 しかも、このあとには、聞き手の感心した「一体感」を作り出すための、驚くべき技まで披露してくれている。なんと、ジェノワーズ(スポンジ生地)にいちごとクリームをはさんだ後、-2℃の鮮度保持庫に入れ時間をおき、いちごとクリームから適度に離水させることで、生地と一体化するという!

 どうして私がこんなに驚いているのかというと、それまで私は、クリームや果物から水が出る“離水”は製菓にとって、味を水っぽく、薄くするだけの「悪」だと信じていたから。ロールケーキやショートケーキが、作って半日〜1日くらいたったほうがなじんでおいしい、というのをわかっていたけど、そのためにわざわざ鮮度保管庫に入れて離水させる、というのはやっぱり驚きだ。そうか、そもそも「なじんでおいしい」というのは、あれは離水のなせる技なのかあ、としみじみ納得。いや、ほんと、勉強になります。製菓学校や製菓業界ではあたりまえのことなのかな?

 話はそれたが、とにかくこの本は、(例えば)ショートケーキとはどういうお菓子なのか? どう作るべきなのか? シェフはその定番についてどう考えているのか? 聞き手を立てることで、ひとり語りでは語りきれないものが引き出せていると思う。

 

バイブルよさらば?

  そして、この本をこんなにも愛読しつつも、でも、同時に、自分は卒業なのかもなあ、とも思い始めている。「すべてを教えてくれる本を探す」というやり方が、そもそも間違ってたのかも?と近頃つくづく思うからだ。

 レシピにはなにも書いてない。だから素人は、作る→失敗する→再挑戦を数回繰り返し、それでもだめなら自分で新しいやり方の仮説をたてる→再挑戦をするしかない。それをやってこそ、自分の手でいろんな発見ができるし、新しい味にも出会える。

 でも、私は頭が悪かったから、自分で仮説をたててがんがん試作する、ということができなかった。料理ならまだしも、お菓子って、絶対言われた通りに作らないといけないという強い思い込みがあった。たとえどこにも指示がなくても。だから、「生地がもろもろしすぎていて、ボール状に固められない」と困っていたクッキーは、「もろもろしなくなって、握りやすくなるまでこねればいい」というごく簡単な答えに辿りつくのに、なんと7年もかかった。

 長い間、困りながらこのクッキーを作り続けていて(すごくおいしいのだ、小嶋ルミさんの「ピーカンボール」)、ある日フードプロセッサーをいつもより長くかけすぎて、気づいた。生地がしっとりして、つながって、簡単にボール状になる。つまり私は、「さくさく感を出すだめにこねすぎは絶対にNG」というクッキー界の掟を守りすぎていたのである。プロセッサーを回して、生地とバターと砂糖が混ざり、サラサラしている状態でもうやめ。とにかくサラサラしてないと駄目。それを頑なに守っていたので、そりゃ団子にはできないですよね。「もうちょっと回してみてもいいのでは?」ということすら、全く思いつかなかったのである。うーん。

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⇧ピーカンボール。粉糖にゲランドの塩を混ぜてあまじょっぱくしたら、さらにおいしくなった。 誰にあげても喜ばれる鉄板メニュー。

 

 そもそも最初に作ったのが小嶋ルミさんの本で、選んだ理由が、「指示がめちゃくちゃ細かい。手軽には作れない。でもすっごくおいしい」と評判だったから。気合をいれて、面倒なこと山ほどして、すっごくおいしいお菓子を作りたい、と思ったのだ。当時は15年くらい続けていたフリーランスのライターの仕事も、好きで住んでいたはずの東京M市にも、心底飽きていた。なにか新しいことがしたかったのだろう。

 やりがいのある大仕事がしたかった。だから、指示が細ければ細かいほど、ありがたかった。なにもかも、全て書いてあるのだと思いこんでいた。書いてあることはきっちりやりますから、おいしいのできてくださいね、という感じだった。実際、小嶋さんの本は普通のレシピ本の3倍くらい情報量がある。それでも、作ってみると、「それでこれはどうなってるの? どうしたらいいの?」ということがたくさんでてきた。そうなるともうお手上げだ。

 そのときに、失敗したっていいや、と、思いついたことなんでもやってみるという精神があればぐんぐん上達したのだろうが、当時の私は「指示通り」という概念に縛られていたから、独自のやり方を追求する気なんてさらさらなかった。ただただ、「どうして?」と思いながら本の通りに何度も作り、毎回同じトラブルにぶちあたり、迷いのあるお菓子を焼いていただけ。その合間、片っ端から製菓本をあさって、答えを探していた。どんぴしゃな答えが見つかるときもあったし、全然ないこともあった。

 

べつに「お墨付き」の味にならなくてもいい

  私は1年半前に鬱がなおった。視力がよくなったような気分の今では、このバイブルはいったんしまってもいいのかもなと思っている。いや、またプリン作ろうと思ってるからしまわないけど、こればかり崇めなくてもいいのかなと。

  今だからこそ、昔の自分が本当に応用のきかない、いろんなことにがんじがらめだったことがよくわかる。まさしく鬱病の典型だった。融通がきかなくて、深刻で、だからオプション(選択肢)を作ることを許さない。すべてに行き渡ったレシピがないと、菓子のひとつも作れない自分。このありがたい本も、そんな私を助けてはくれるが、成長はさせてくれない。

 何度作っても失敗してしまうなら、思いつきで、どんどんいろんなやり方を試して食べて、発見すればいいのである。そして自分の好きな味を作っていけばいいのである。べつに「お墨付き」のお菓子を作らなくてもいいのだ。まずくてもいいから、新しい味を作って、それを面白がってみよう。そしてそれが美味しくなるように(これ大事)、仮説をたてて何度も作って、試行錯誤しよう。そういう姿勢が、たぶん私には必要。

 そんなふうに向かえるようになれば、例えば「プリン作りたいな。ああでもあのレシピでは生クリームがいるんだった。ないか。じゃ、やめ」なんて思わなくなる。「ためしに牛乳だけで作ってみるか」ってなる。

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 ⇧で、作ってみた。生クリームを入れず、そのぶん牛乳で補って。味が薄くなるだろうなあと覚悟してたけど、ならなかった。なぜ? 生クリームなくても全っ然!おいしい。しかも、いつも指定通りに焼いてもしゃばしゃばで固まらず、時間と温度に苦労していたのだが、この日ついにベストタイム&温度を発見。それは140度(うちのオーブンはミーレです)で25分プラス!余熱10分、だった。なんのことはない、タイマー鳴っても手が離せず、10分放置していたら、今まででいちばんなめらかな出来になったというだけのことなのだが。

後半戦は、「当たり前のこと」をひとつひとつ確認

 答えは自分以外の誰か、偉い人が知っていると思っていた。昔は。そんで、答えはひとつしかないとも思っていた。無自覚だったけど。自分で、自分なりの答えを作ってみようと思えなかった。こういう姿勢は、製菓だけでなく当然、すべてに及ぶ。私は仕事の仕方、選びかた、家事の仕方、健康法、旦那や友達とのつきあいかた、そして人生の捉え方まで、ぜんぶ、どこかに正しい答えがあって、それをただ探していた。ひたすらに。同時に、自分独自の思いつきは、くだらなくてしょうもないことだとも思っていた。

 私は今、一時的に仕事をしていなくて、これからどうするか2つ3つ、選択肢があるのだが、正直言って、どちらを選んでいいかわからない。毎日考えてるけど、わからない。誰か、物事をなんでもきっぱり言い切る人に「そんなの決まってるでしょ」と断言してほしい、と心の底から思う。毎日思ってる。でも誰もしてくれない。好きにしていいのだ、と思うと、気が滅入る。

 

 でもまあ、自分の答えは自分で作れば?と思えただけ、進歩なのかもしれない。こんなことは当たり前のことだ。「モノが見えてる人」には十代からわかっていることだろう。でも私は「見えてない人」だから、中高年とか言われる年になってようやくわかった。恥ずかしながら。

「人生には試してやってみる、ということができない。なぜならば人生は一回きりだから」という一文があったのは、M・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」(正確な引用じゃなくてすみません)。試して、失敗する可能性も高い。でもそんなのしょうがないのだ、だってやり直しはできず、人生はいつも初挑戦で、お菓子みたいに何度も作ることはできない。それならば、失敗を敗残者の烙印ではなく、「単なる経験のひとつ」と思うしかない。そのほうが楽しい。

 年をとると、「世間でよく言われてること」がしみじみ、「ほんとだなあ~」と思うものなのだが、これもそのひとつだ。「病気になると健康のありがたみがわかるよね」とか「年をとると日々があっという間に過ぎるね」とか「枯れても紅葉して美しいなんて、葉っぱって偉いね」とか「天気がいいと気分がいいね」とか「人生は一回きりだね」とか、そんな「当たり前」で「昔から言われ続けてること」。未熟者の私は近頃、こういう「当たり前なこと」をひとつひとつ、おなかの底から確認していくことが、人生後半戦のテーマなのかしら、と思ったりしている。確認して、そして、ごくありきたりで、それなりに充実感も感じられる一生だったな、と思いながら死んでいくのだろう。

 

サプリメントは私のなんなのか

体調不良がサプリで治るんだ!?

 

 私もサプリメントを飲んでいる。日々の不調をなんとか解消してくれないか、とすがるような気持ちで飲んでいる。

 若い頃になんとなく飲んでいたビタミン類は別として、私が本気でサプリメントにすがるようになったのは、38歳くらいだったと思う。もともと低血圧で、寝起きは昔から悪いのだが、真剣に寝起きがつらくなってきて、そんなとき、コエンザイムQ10 の商品レビューが目に飛び込んできた。

「寝起きがとにかくよくなる」

「すっきり起きれる」

「目覚めがよくなった気がします」

 たしか別の理由で、Q10を検索してたのだと思うが(たぶん美容系)、たくさんの人達が口を揃えて「寝起きがよくなった」と言い募っていて、これはすごい!と思って早速買った。今はそんな謳い文句のサプリメントは山のようにあるし、そういう日常の不調を、薬でなくサプリで解決することは当たり前だけど、当時はショッキングだった。たいして前ではないけれど。たぶん、そのときまで、アトピーや花粉症は別として、「体調不良」というのをあまり意識してなかったのだと思う。「体調不良」がサプリで解決できるんだ、と知って、すごくいいことを知ったような気がした。だって、このQ10、実際効いたから。確かに寝起きがよくなったのだ。

 

 …が、効果は永久に続かないのであった。どんなことでも効果は続かない。パワーヨガの効果だって薄れる(というか、実感しづらくなる)のだから、サプリだって、弱くなるのは当たり前なのだ。数年飲んで、気がついたらまた寝起きが悪くなっている自分がいて、なんとなくやめてしまった。

 というか、もっと効くものを!と探し始めた。

 プラセンタとかコラーゲンとかアミノ酸とかオルニチンとか、まあ、そのときに応じて、あらゆるサイトの口コミを熟読して、買っては飲み、飲んではやめ、という日々。

 オルニチンも、確かに寝起きがよくなった気がした。でも高いからできればやめたかった。なくなって、試しに1か月。飲まなくてもわりと元気に起きているので、安堵している。では、この間まで、ものすごく朝がつらかったのは、やはり夏および残暑のせいだったのか。これだけいろいろ目配りして生きてるのに、自分の調子を整えることがいまだに苦手、というのはどういうことなのだろう。

 

 それはさておき、では今、なにを飲んでいるのかというと、これだ。

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↑記憶力を強化するDHAと、脳のめぐりをよくして細胞間のつながりを強化して幸福感を生み出すホスファジチルセリン、あとは花粉症に効くとみんなが言っていたので、整腸剤のノアレ。

 

 で、難しいのはこれは果たして効いているのか、という判断だ。DHAは、「なにもかも忘れる!」という頭をかきむしりたいことが減った気がして、続けている。それでも、映画や人の話を聞いているとき、ふっとブランクができて意識が飛んでしまうのは治っていないのだが。まあでも、悪化もしてないが。

 ホス~は、ちょっと怖いサプリ。スマドラ=スマートドラッグ、なんて言われてる類のもの。口コミで、穏やかになった、焦る気持ちがなくなった、と散々書いてあるので、1年前、荒れていた私は、本当にすがる気持ちで買った。飲み始めたときはだいぶ自己コントロール法を覚え、穏やかな日々を送り初めていたので、今の安定が、果たしてこれのせいなのかどうか、よくわからない。口コミのような、「びっくりするくらい効く」という衝撃はなかった。

 整腸剤も、40歳をすぎてから悪化したアレルギー体質の改善にどれくらい役立っているのか不明。本当にわかるのは来年の花粉症の時期だろう。近頃、年に数回やってくる猛烈なアトピー性皮膚炎は、軽減しなかった。なのに飲んでいるのは、すごくお通じがよくなるからだ。もとからお通じは悪くないのだが、これを飲んでいるとさらによくなる。腸からアレルギー体質を治すには数ヶ月はかかる、という記述もあったし、では来年の花粉症まで飲んでみるか、という感じ。

 

ゆっくり、ゆーっくり。脳をだましてやめていく

 

 恐ろしいジレンマは、ホス~の「すっごい効く。でもやめるとその数倍ダウンする」という口コミ。「やめるとすごくダウンする」というのは、サプリが効いている証拠でもある。しっかり効くサプリしか買いたくないし、飲みたくない。でも、やめられなくなるのは嫌。これはすべてのサプリに通じるジレンマではないだろうか。

 私の場合、ここのところ安定しているので、ホス~もそろそろやめたいなと思っている。だってこれ、「飲んでると効いてるのかいないのか、よくわからないくらいなんだけど、やめると途端に落ちるから、それで効いてたのかってわかる」なんてサプリ、なるべく飲みたくないですよね? 安くもないし。

 でも、安定しているとはいえ、ちょっとしたことですぐ絶望したり疲れきってしまうので、ホス切れによるダウンは避けたい。なので、毎日飲んでいたのを、3日に2日に、2日に1回に、とじわーっと減らすことにした。

 

抗うつ剤断薬はこれで。

 

 実はこれで、抗うつ剤もやめたのだ。心療内科に通っていて、抗うつ剤を飲んで働いていたのだが、ものすごく太って、これはどう考えても薬のせい、と判断して、もう絶対飲みたくない、と思った。太ることでますます鬱になる。

 しかし先生に言っても、もう少し続けましょうとか言うし(でもいい先生だった。何事も決して強制しなかったし)、抗うつ剤は急にやめてはいけない、というのはどこにでも書いてある鉄則だし、しかしもうこんなもの、本当は一錠だって飲みたくない……というわけで、自分の頭をだましだまし、すこーしずつ減らして、なんとなくやめる、という方法をとった。4日に1回飲まない×1週間、3日に1回飲まない×2週間…という具合に、本当に少しずつ。これはとてもうまくいって、なにひとつリバウンドせずに断薬することができた。

 うまくいくかは賭けだった。この薬(…なんだっけ……忘れてしまった…)、抗うつ作用はしっかりあって、まさしくこれのおかげで私はあるしんどい時期、なんとかがんばれたのだ。薬を飲んで初めて、「嫌なことがあっても、たっぷり寝て翌朝、いや、またがんばってみるかという気持ちになる」という体験をしたのだから。そんなに効いてた薬を、あんなにするりとやめられて、本当によかった。そのまま、私は薬も通院もやめて1年後に「あー、鬱なおった!」と天啓のようなすごいひらめきを得るのです。

 

毎晩サプリでうなされる

 

 サプリの話に戻る。

 まあ、そんなわけで、今、ホス~段階断薬実行中なのだが、要は、サプリのある生活というのは本当にいろいろなジレンマに満ちている、ということなのです。「やめてみないと本当に効いてたかどうかわからない」というのは、ほとんどのサプリの真実だと思う。つまり、飲んでるときはそれほど効果は感じられない。結構なお金を払わなければいけないのに、不毛だ。でも、どれだけ効果があったとしても、体は慣れてしまうから、「効いてる感」を永遠に感じることはできない。

 

 こういうジレンマは、思ったより私の奥深くに染み込んで、そして影響を及ぼしているのかもしれない。

 というのは、私、ほとんど毎晩、サプリについてうなされているのです。だいたい夜中にふっと、半分覚醒して、「あーっ、あのサプリ飲み忘れた!」と思う。でも寝ぼけてるから、飲みに起きたりしない。ただただ、「ああっ、忘れた…明日起きれない。明日、調子悪くなる」と不安に襲われる。「どうして忘れちゃうの? ていうか、なんだっけ、そのサプリ? 確かオレンジの…オレンジのサプリなんだけど…なんていう名前で、なんのために飲んでるんだっけ? ああ…どうしよう…また今日も飲み忘れて…ああ、ああ、これじゃあだめだ、もうだめだ」

 と、ほぼ毎回自問自答しているのです。で、このサプリ悪夢はもう1パターンあって、「思い出した! そのサプリの名前。効果。洗面所のあそこにおいてある。明日は絶対飲まなくちゃ!」とも思う。かたく、つよく思う。そして朝起きて、「なんだっけ、それ」と不思議に思う……という次第。朝、目が覚めると、そんなサプリは存在しないのだ、とはっきりわかる。なにも買ってないし、置いてないし。なに言ってんだろ、と思う。でもまた夜中になると、半分目覚めて、「あーっ、飲み忘れた!」もしくは「そうそう、あのサプリ! 思い出した!」となるのです。

 これ、もう7,8年も続いている。1年365日ではないけれど、年がら年中ではある。ものすごい悪夢ではないから、これのせいで全く眠れないとかそういうことはないのだが、でもここまで繰り返すと気にせざるを得ない。

私はここになにか問題を抱えている、というのはわかるのだが、なにが問題なんだろうか? サプリをいっさいやめればいいのだろうか。でも、なにも飲んでない時期っていうのも結構あったのだ。そのとき、うなされていたっけかな…??

 うーん。潜在意識が、私になにかを伝えたがっているんだよね。 でも私はまだそのメッセージ、受け取れない。

 

 

 

自分で熱を生み出そう

どんどん冷えていく!

  白湯に目覚めた。真夏以外、毎朝、いちばん最初に白湯をからだにいれる。ものの本には、あまり熱すぎないほうがよい、とあるのだけれど、私はあえて80℃。ひとくち飲むと、すぐさま熱がつたわる。まさに「五臓六腑にしみわたる」のだ。内蔵全体がじわーっと温まって、これがあまりにも気持ちいいので、くせになってしまった。

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 白湯の味はいつも違う。あるときはとびきり甘く、おいしく感じるし、あるときはなんだか虚しい味がする。それは私の体調を表していると思うのだが、具体的に自分の体調がどうなると、白湯の味がどう変わるのかはわからない。ただ、白湯がおいしいときは、いい調子なのだ、と勝手に思っている。単に喉がかわいているかいないか、だけのような気もするが。

 そもそも、朝に野菜ジュースを作って飲んで、ヨーグルトを食べて、まあコーヒーも飲むけれど、コーヒーって熱湯でいれないからそこまで保温効果はなく、体が冷えてその後の活動のやる気がなくなってしょうがないので、白湯を飲むことにした。飲んだ瞬間に体の一番奥が暖かくなり、目も覚めて活力がわくので、これはすごいと思って続けている。

 なにしろ、なにもないのがいい。カロリーもない、糖分もない、色素もない、カフェインもない。摂取過剰の心配がない。厳密にいうと、やっぱり飲み過ぎはよくないと、これもものの本に書いてあるのだけど、でもまあ、いいでしょ、飲みたいだけ飲んでも、と勝手に解釈している。唯一、むくむ心配はあるのだが、それは他の飲み物でも一緒だし、今は朝で、自分はこれからヨガもするしランニングもするし、お風呂にも入るのだから、排出されるよね、とこれまた勝手に解釈している。

 

首が寒い、という言葉を知る

  とにかく体が冷えてしょうがないのだ。40歳をすぎると。どういう理屈なのだろう、熱を保持する力が弱っていることなのか。

 首が寒い、などという感覚も、この数年で始めて知った。真夏以外はほぼタートルを着ている。たまに襟ぐりのあいたものを着てしまうと、首元がこころもとなく、みじめで、気持ちもかなりやられる。年をとったら首が寒いってどういうこと?と思っていたけれど、首が寒いというよりは、肌が露出しているところはすべて寒く感じるということなのではないか。よく考えたら他の部分は顔と手以外全部、なにかしら布で覆っている。さすがにまだ、顔が寒いとは思ったことがないが…。

 おばちゃんって、どうしてストールを巻きたがるんだろうと不思議に思っていたけど、あれは体型隠しとかおしゃれとか以前に、実用なのだ。

年をとると、熱が生み出しにくくなる、そういうことなのだろう。

 

腹巻きも必須

  夜も、腹巻きがないと眠れない。普通にTシャツやパジャマを着ているだけでは、たとえ何枚重ね着しようとも、おなか周辺がスカスカする。ものすごく頼りない。不安になる、と言ってもいい。

 薄くて密着感抜群、なおかつ保温力もあり、黒で、できうる限りスタイリッシュ(!)な腹巻き(ホワイトマックスという会社のもの)を見つけて以来、完全に自分と一体化した、と言っていいほど身につけてきた。友人にもすすめ、母親にも買ってあげた。

 そのすすめた友人は、つけた翌朝、早速連絡してきた。

「おなかまわりに一枚、布が密着しているだけで、どうしてこんなに安らかな気持ちになるのだろう」

 そうそう、そうなのだ。腹巻きは心安らぐアイテムなのだ。

 

二の腕が寒い、それはつまり…

  さらに44歳になったら、夏にやたらと二の腕が冷えた。二の腕が寒いってどういうこと?でも最初は気のせいかと思って無視していた。だって二の腕が寒いって、変だし。でも、どうにもはっきりと寒い。気がつくと両腕で二の腕を抱きしめている。これはやっぱり冷えているんだな、と思って、ググっててみたら、二の腕や太ももが寒いのは、冷えのなかでも最もたちの悪い、体の奥の奥が冷えているということです、とか出てきた。複数出てきた。たぶん、本当なのだろう。

 十年くらい前に、体を冷やしすぎて重度の椎間板ヘルニアをやって寝込んで以来、冷えには気をつけていた。だから腹巻きをしたり、五本指ソックスをはいたり、冷たいものは避ける、湯船にはしっかりとつかる等、それなりに努力はしていたのだが、それらの努力をけちらす勢いで私は冷えているらしい。

 なので、朝、白湯を飲むことにした。そしたら、おなかがぐーんと温まって、すこぶる気持ちいいので、癖になってしまったというわけである。なんでもすぐ癖になるのだ。

 新しい道具や食材や方法がいらない、というところがいい。ただお湯を沸かすだけ。手持ち(?)のもので、こんなに心地よくなれるのだから、素晴らしいではないか。

 

自分で自分を温めることができれば

  冷えは、ダイレクトにメンタルと繋がってると思う。寒いと感じるときのあのみじめで寂しい、頼りない感じ。本当はできることもできなくなってしまうような、人を弱くするなにかがある。冷えないように予防すること、さらに、自分で熱を生み出すことができれば、理想だ。

 実はこの1か月半くらい、右足の小指を骨折して走れなかった。16年走ってきて、こんなに走らなかったのは初めてだった。1か月半後、おそるおそる走ってみたら、もうびっくりするくらい心肺機能が衰えていて、とんでもなくつらかった。あー、そうだ、走るのって、つらいんだ。だからみんな走らないんだ、と改めてビギナーの気持ちを思い出した。

 肺だけでなく、喉もつまって苦しいんだよな、おなかも痛くて、下半身が重くて、ひきずるようにしか動けないんだよね、ああ…よくもここまで衰えたもんだよなあ…といろいろ考えながら、えっちらおっちら脚を動かしていたのだけど、そのうち、体が温まってきた。それはいつものことだが、違うのは、足全体(脚ではなく)がほかほか~っとしてきたことだ。

 足の指、足の裏、足の表(?)。足全部がなにか、発熱体のようにあったかい。地面を踏みしめるたびに、またほわっと熱が生まれるのがわかる。そしてその熱がふくらはぎをつたって全身にまわっていってることも、実感できる。うわー、なんだろう? これはすごい! 気持ちいい! 久しぶりのランニングでヒイヒイ言いながらも、どんどん元気になる気がする! 自分の体の新しい感覚に感動した。

 残念ながら1週間もしたら、この足発熱の感覚は薄れてしまったのだが、でもまだしっかり覚えている。ほっかほかの私の足。

 自分で熱が生み出せるというのはすなわち喜びだ。冷えは、心を弱くする。逆に、熱は心を勇気づける。さらに、自分で生み出した熱は、呼び水のように、その人の活力をあとからあとから生み出し続ける。

 あの感覚には、鬱を吹き飛ばすエネルギーがあると思う。

 自分のなかから、手持ちのもので、熱や喜びを生み出すのは、私の残りの人生の目標である。保温下着とかカイロとかエアコンではなく、誰かからの賞賛や愛情、新しい買い物や、別世界を体験できる旅先ではなく(いや、もちろんそれもいいけど)、自分の内部から熱と喜びを自家発電できたら、最強だ。だって、失う恐怖に怯えなくていい。

 どうやって自分からなにかを生み出していいかわからないなら、とりあえず体が暖かくなるよう、動いてみる。自分で生んだ熱というのは、暖かいだけでなく、心地よくもあるのだ。

 体が暖まるとやる気が出る。動く前は思いもつかなかったことを、ちょっくらやってみようか?なんて思いついたりする。

 だからやっぱり、気分良く暮らすには、絶対運動したほうがいいんだよな、といつも思う結論にたどりついた。今日も寒いけど、がんばって走ろう。お風呂を沸かして、出かけよう。

 

 

グラノーラがサッポロポテトの香り

 

 

朝のヨーグルトにのせるグラノーラ、自分で作り初めてはや10年。

最初は徳永久美子さんの「パンとお菓子の本」にあるレシピで、オートミール

アーモンド、かぼちゃの種、ひまわりの種、つなぎに卵白、甘みに蜂蜜、という感じで作っていた。これに、ブランフレークを混ぜて食べていた。

でもニューヨークの「sullivan street bakery」のクッキーみたいなグラノーラ

めちゃくちゃおいしくて、そして、いちいちブランフレークが切れると買いにいくのが面倒で、このクッキータイプに挑戦することに。

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⇧sullivan street bakeryのグラノーラ。ここはパンもフルーツもなんでもおいしいです!

 

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 ⇧これ以上はないってくらい、装飾なしの素朴なお菓子ー黒糖のふくれ菓子とか、バナナブレッドとか、オニオンブレッドとかーが、なぜなのか、すっごくおいしそうな徳永久美子さんの「パンとお菓子の本」。初めて買ったパンの本じゃないかな? だから最初は何を作っても失敗していた。数年後、ふと思いついて作ってみると、当時思っていたもの、出来上がったものと全然違うものができて、自分もそこそこ成長してるんだなあ、と思ったりして。

「自家製グラノーラと朝の焼き菓子」は、著者の原さんの、アメリカンスイーツへの愛であふれた1冊。なにを作ってもおいしい、という信頼があります。

 

で、作ってみた

クッキーみたいにするってことは、粉をたすんだよなあ、油も…??と思いつつ試行錯誤し、結局、アメリカ菓子研究家の原亜希子さんのメープルグラノーラのレシピを基本にさせていただくことに。

砂糖、油、牛乳、メープルシロップ、全粒粉の割合は守り、あとは適当にあるものを放り込む。

とりあえずオートミールとアーモンドがたっぷりあって、味の土台を作ればあとはお好み。きな粉、ごま、ピーカンナッツ、ピスタチオ、軽い食感にしたいときは

ポン菓子を。さくさくさせたいときは、ココナッツ。

ごまがあまってたらいれるし、小麦胚芽とかライ麦とか、あまってて消費したいものをどんどん入れる。

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⇧手前のボウルに、液体系が入っている。これを奥の粉類とまぜて、焼くだけ。

 

そして、シナモンとクローブを入れる。結構しっかり。

クローブを入れると、焼き上がりがふんわりカレー風味…サッポロポテトの、あの黄色いほうの香り(じゃあバーベキュー味ってこと?)になるのである。そしてそれが、抜群に芳しい!

甘いグラノーラにしょっぱい風味がつく、とでもいうのか。香りが、すごくおいしい。

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140℃で50分、その後155℃にあげて、焼き色つくまで15分弱。

とにかく芯まで火を通すことが大事。さくっ、かり、と芯の芯まで感じられるくらい。

焼きあがったあとは、冷めるまでオーブンを閉じたまま、さらに乾燥させる。

そのまま食べてもおいしくて、友人の夫はおつまみにしていた。

家中に香ばしい香りが漂うなか、これをばりばりと割って(手が痛い)瓶に詰めるのも、なかなか楽しい作業です。