独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

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40代のお金の使い方

 VIRONでお昼を食べた。

 

 パンはもちろん、料理もデザートも、いつも確実においしいVIRON。そしていつも確実にお高いVIRON。この日のランチは大山鶏のモロッコ風サラダ、¥1800。白金豚(だったかなあ……)のロースト、ドフィノア添え、¥2000とさんざん悩んで、サラダも食べたかったので鶏にした。

 

 たっぷりの葉野菜、惜しみなく添えられた色どり野菜。これがプロの火入れか!とうなるジューシーな肉の食べごたえ。量もたっぷり。ああ、うまいなあ、と思いつつ、いつもここで思うのは、この値段を出さないと、このレベルのものは食べられないのだろうか、という疑問である。だって、お値打ちのはずのランチで、¥1800である。スープも、ドリンクも、もちろんデザートもついてないのだ。お茶、飲みたいです。この素敵な空間で余韻を楽しみながら。でもお茶に¥800出すなら、タリーズでも行こうか、と思ってしまう。ほんとは野菜サラダもしくはマリネ¥800に豚ロースと¥2000、お茶¥800に、なんならデザートのプロフィットロール¥800(だったかな?)だって頼みたい。でもすると、合計五千円くらいになってしまう。以前は“たまにだから”とかうそぶいてオーダーしてたけど、もう無職の私にはできない。

 以前、ここのシェフの牛尾さんのロングインタビューを読んで、VIRONがいかによい素材を使っているか、この値段はむしろ安いくらいなのだ、ということを知って以来、「高すぎるよね」と思わないようにしていたのだが、やっぱり安くはないよね。というか、私には高い。そして必ず、このレベルの味を東京で出すには、この値段を出さなきゃいけないのか? どうしても? という、最初の疑問が沸いてきて止められないのだ。

 

 …と書いてて、思い出した。昨年、池袋のイタリアンレストラン

「オステリア・ピノ・ジョーヴァネ」でランチを食べたとき、「たとえ東京のど真ん中でも、あの値段を出さなくても相当な満足は得られる」と確信したのだ。残念ながら写真は撮らなかった。しかし味と量、サービス、すべてかなり満足度が高く、池袋もめったに来ない場所だが、この店のために来てもいいかもしれない、とすら思った。

http://www.pino-giovane.com/wp-content/uploads/lunch_img_01.jpg

2400円で

 スープと前菜3点の盛り合わせ

 パスタ 

 メイン(たとえば山形三元豚の網焼き 香草風味 サラダ添え)

 自家製パン

 ドルチェ(フランボワーズのティラミス)

 珈琲か紅茶

  が出てきて、それぞれかなりの量なのである。この写真は店のHPからお借りしたのだが、この写真にはメインがない。つまり、2400円コースなら(1800円もある)このほかにさらに肉料理がつくのだ…。

そう、でもたしかここも旦那さんがシェフで奥さんが給仕をしていた。つまり個人店なわけで、だからこういうことができるのだろう。

いつか書いたように、大きな店と小さな店は違うのだ。

camecon.hatenablog.com

 

 ふたりでやっているだけあって(ディナータイムは違うのかも?)、それは小さな小さな店で、VIRONのようにたくさんのお客さんにまぎれこむようなくつろぎかたはできないのだが、まあ、そういうところに値段の差が出るのでしょう。とくに東京駅のVIRONの広さと開放感、そして椅子からカウンターから、すべてしみじみと「いい素材」を感じる内装などは、ちょっとやそっとの資金では調達できないだろうし。

 

 ちなみに池袋でこんなふうに結論づけたあと、半年ぶりにでかけたVIRONで、サラダの葉っぱがけっこうくたびれていて、それでかなり興が醒めたので、最近は前ほどいかなくなった。言えば取り替えてくれたのだろうが…。お店のためにも言ってあげるべきだったような気もするが…。

 

散財とわたくし

 さらに難しいのは、お金というものが相対的なものだということである。「正当な価格」と「私にとっての正当な価格」がけっこう違うのだ…。残念ながら。若いときは素材やら作りやらが素晴らしくて、それが「正当な価格」だと思われるものなら、私の経済状況はいっさい関係なく購入していた。なんか、それが善だと思っていた。「買うべきである」と思っていた。そして、けっこうのちのち苦しい思いをした。当然ながら…。

 世の中には、それだけの値段を払ってようやく、それを作った人が生活を賄えるもの、というのがいっぱいある。通常の5倍の手間をかけて、通常の半分しか収穫できないトマトだの、その技術を習得するのに何十年もかかる銅鍋だの、木材を何十年も乾燥させてようやく使える無垢材家具だの…。例えば新築マンションは、その価格の半分は広告費、なんて話を聞くと、意地でも新築は買わないぞ、なんて思うけれど、前者のように、その値段にふさわしい理由がついていれば、どんなに高くても納得しなければならない。

 しかし、ではそれを私が必ず買うのかというと違うんだよなあ、ということに、私はだいぶ大人になってから気づいた。まあ言ってみれば分不相応ということか。そのものがどれだけ素晴らしいものでも、それはイコール「では買いましょう」にはならないのだ。そこにやっと気づいた。遅ればせながら。

 子供の頃から「みんな平等です」と言われ続けて育ったせいなのか、80年代のバブルが青春時代だったせいか、「素敵だけど今の私にはふさわしくない」という謙虚な感覚を、ほとんどもったことがなかったのだ。いいものは、すべからく買わなければならないと思っていた。

 でもいつのまにか、「素敵! 欲しい!」と閃いた数秒後、「でも今の私には“良すぎる”ものじゃないか?」という考えがわくようになった。「これはまさしく素晴らしい品物だけど、私には必要はないのでは?」と。

 私の経済の歴史を書くと

~31歳まで 散財しまくる

31~36歳 散財に疲れ、反動で「なにもいらない、なにも買わない」と言い出す

36~40歳 やっぱり欲しいものは欲しいしな、と思い始める。買わないときが長く続いてフラストレーションがたまり、たまにどかっと無駄なものを買って後悔する、と繰り返す。

40~46歳(現在) 使い勝手、試用期間、持つことの効果、今の経済状況などを考え合わせ、「価値あり」と厳選したものだけ買う

 

 という流れで、今ようやくお金と穏やかにつきあっている。「価値あり」のものというのは、つまり「絶対後悔しないもの」である。長く生きていろんなことが予測できるようになったので、「この先後悔するかしないか」もだいたいわかるようになったというわけだ。昔は稼いでは使う、の繰り返しで、友達もすごくたくさんいたし、いろいろ遊んでいたし、たぶん傍からすれば「あの頃は活躍してたのにね」などと思われていそうだが、でも今はあの頃の「あれが欲しい。でもお金が足りない」「あれを買ってしまった。支払いどうしよう」という苦悩が消えたので、とても幸せだ。

  謙虚でありつつも、決して「どうせ貧乏ですからね」と卑屈にはならない。とびきりおいしいオリーブオイルを知っているけれど、でも今の私には750mlのオイルに4500円も払えないから、半額以下のものを使う。でもそれを、仕方なく使っているのではなく、喜んで使っている、そのへんの生活態度がいいんじゃないかと、最近は思っている。

 

今日が最後の日

今日は最後の晴れの日、らしい

 不調つづく。

眠れない、起きてもだるい、とぶつぶつ言いつつ、ギックリ腰は回復に向かっていたので、パワーヨガやランニングを再開していたのだが、昨日突然悪化。寝てても痛いという状況ではごはんを作るのがやっとである。「調子悪くて当たり前」とどれだけ呟いても、諦めはつくけれど痛みは去らない。

 

 しかし、外を見渡せば、現在一年のうちでも最も美しく、気持ちよい季節なのであった。「関東地方、明日は梅雨前の貴重な晴れになるかもしれません」などと気象予報士が言ったりしていて、ああ、この最高に素晴らしい季節が去っていく、と焦る。ランニングにも最適なのは、このときと、あとは初秋くらいしかないのに…。

 

⇧我が家からの眺め。この大きな木にどれだけ助けられてることか…。しかし借景なので、誰かがこの木を奪わないことを日々祈ってもいる。

 

新緑大好き

 新緑が、実際どれくらい私の気力回復に役立っているかは不明だけれど、なにが好きかと聞かれたら、「新緑です」ときっぱり答えたい。それくらい生まれたばかりの、水もしたたるような美しい葉っぱたちが好きである。五月になり、すごい勢いで増殖する木々や葉に囲まれると、目が、頭が、細胞全部がじゃぶじゃぶ洗われてる気がする。

 この時期は、部屋からぼーっと木々を眺め、ランニングも毎日する。毎日走ると結構膝が痛いし、実際腰も再悪化したけれど、それでも「調子悪ければ走らず歩けばいい」と思いながら、外に出てしまう。この乾いた空気と風、つやつやの新緑は、本当に期間限定、今しか味わえない。

 子供の頃から「無精たらしい」「怠け者」とさんざん言われ、とにかくできるだけ楽したいと思って生きてきた典型的な駄目人間が、よくもここまで変わったものである。変わったけど、その塩梅がわからず、だから年がら年中、運動しては腰だの首だのを痛めては寝込んでいるのだけど。

 

 掃除だの保存食作りだのと違って、新緑を浴びたからといって、じゃあ実際自分にどれだけ益があるのかはよくわからない。公園に行ったから即やる気が出るってもんでもないし、新しいアイディアがわくわけでもないし…。ただ「あー気持ちいいなあ」と思うだけだ。それでも、最近、低空飛行な日々のなかで、新緑はわずかな希望であることは事実。新緑を眺めて「小さく喜ぶ」を積み重ねて、なんとか気力をつないでいる、というのが実情なのかもしれない。

  例えば、毎朝の楽しみ、アボカド栽培。水につけて1か月、ようやく根が出た。

いったん根が出たら、毎日目に見えるほどぐんぐん成長する。ほかの2つはいっこうに根が出る気配がない。そんな簡単に発芽するもんでもないのかも。3つ用意してよかった。しかしこのあと、どうしたらいいのだろう? 調べないとわからない…。

 

 昨年はがんがん成長していたのに、今年ぱたっと活動休止してしまった、名前もわからない和風な植物。よくみたら根が露出してる。土もかっちんこっちん。慌てて植え替えする。去年育ったぶんだけ、根がものすごく成長して、鉢いっぱいにまわり、硬化してしまった。うっそ…と言いながらなんとか鉢から取り出し、根をカットし(まさに大手術、とこういう植え替えをするときいつも思う)、別の鉢に植え替える。

 

 やる気がやる気を呼んで、テンションが少しあがったので、ランニングの帰りに野菜の苗を買う。

 

 

 鉢底石や、鉢底石のかわりにつかっていた炭をぐらぐら煮て煮沸消毒し、あいていた大きなプランターにまとめて植える。花屋さんが「まとめて植えていいですよ」って言うから…。ほんとかしら。

 

 パクチー、バジル、大葉、そしてゴーヤ。しょっちゅう食べたいけど買うと結構高いし、中途半端に量が多い、というハーブと、最近妙においしいと思うゴーヤ。

 

 部屋のウンベラータも生え変わりの時期。

 次々と葉が黄色くなって落ち始めた。これは昨年3月にいただいたものなのだが、6月になったら、次々落葉して、ついにあと2枚、ほぼ丸坊主になってしまった。ものすごく心配した。「やっぱりなにも育てられない人間なのか…」とまで思い詰めたのだけど、しばらくしたら今度は驚くほどの勢いで新芽が出てきて、真夏にはもらったときの倍くらいの大きさにまで繁り、置く場所を変えなくてはならないほどだった。

 うちには子供がいないので、こうやって、「めきめきと成長するもの」が家のなかにいるっていうのは、なかなかの興奮剤になる。人付きあい苦手だから、口をきかない植物がお友達または家族としてはちょうどいいのかも…と、ホップ酵母に対して思うことと同じことを、また思う。

 

 このときまめに使ってた栄養剤「メネデール」が効いたのだと思って、以来この薬を信奉している。

 

 さあ、これで楽しみができた。毎日、成長ぶりを眺めてわくわくしようではないか。

ランニングコースもグリーンルートで

 いろいろと園芸作業をして、夕方には公園に走りに行く。この家に越して4年なのだが、コンクリートジャングルな住宅街や環七などを走って、「なんかもっと走りたくなるような場所はないのか…」と長いことウロウロし続けて、昨年ようやく「爽快ルート」を発見、設定できた。まあ要するに、緑の多い、車の少ない(音楽聴いて走るので危ない)ルート、ということである。

 

⇧近所の病院の公園を抜け…。

 

住宅街も抜けて公園にたどり着く。

この季節はあまりの緑の豊かさに、はーっと毎回軽く感動する。

 

 

 この日は、三味線(?)をひき、踊りの練習をする人たちとか、犬と絵になる風情で座っているおじさん、などがいた。

⇧犬、かわいい

 

 以前にも、アコーディオンをひくおばさんと、詩(か絵本か?)を朗読するおばさんの二人組などがいたなあ。あれは驚いた…。あとは、豚…子豚じゃなくて、成豚…を、ひもにつないで散歩させてる外人とかもいたな。

 

 …という具合に、わりと公園には事件(?)が多くて、実はエキサイティングな場所である。

 

25回めから本領発揮のケンドリック・ラマー 

 今のBGMは出たばかりのケンドリック・ラマーの新作。

 

 ヒップホップのビートは、走るのに最適である。早すぎず遅すぎず。麻薬的なループが延々と繰り返されているのを聞きながら足を運んでいると、たしかに今セロトニンが出てるはず、とはっきり確信するような、なんというのだろう“快感のリズム”が体内をめぐっていることを感じるのだ。

 ケンドリック・ラマーの音楽は、初めて聞くときよりも10回めのほうがよく感じて、ま、これは普通なのだけど、さらに30回めのほうがなおよく聞こえる、という、なんか恐ろしいものである。普通は、「聴けば聴くほどいいなあ」と思っても、さすがに20回も繰り返せば、慣れてくるし飽きてくるし、興奮も覚める。しかし彼の場合は、25回めくらいからが本領発揮なのである。

 新鮮さは完全に消滅したあとにさらに聴くと、あれ?これ、こんな曲だったのか…と、新しい地平が見えてくる。洗練されていると思っていた曲が野蛮に感じたり、ただしゃべってるだけのように聞こえたラップに、いつのまにか、もういっかい繰り返さずにいられないほど中毒させられていたり。決してポップではないのだけど、中毒性は限りなく高い。何風なのかと説明もしずらい。ジャジーにも聞こえるし、ウエッサイぽくも聞こえるし、ソウルフルでもあるし…。今までのヒップホップの流儀をぜんぶ取り込んで、でも確実に新しい聞き応え。

 ⇧数年前に出たアルバム、『To Pimp a Butterfly』は、今でも愛聴している。凄まじい持続力である。

 流行り音楽を追うのも、体力いるんだよなあと知って驚いたのは数年前。わざわざ努力しないと、昔の曲ばっか聴いてしまう。ほんと、なんでもなかったことが、突然すっごくめんどくさい力仕事に思えるのが加齢ってやつなのだ。

 

 さて、最後の「梅雨前の貴重な晴れの日曜日」を大切にしなければ。

 

おまけ

 ランニングの締めの楽しみはスーパー三徳に行くこと。しかし、最近棚がからっぽなんだよな…。熱烈に募集していたアルバイト募集のチラシも消えてしまったし、もしかして閉店してしまうのでは、それを店員に聞けばいいのか、HPでお問い合わせればいいのか、なんも聞かないのがいいのか…というのが私の最新の悩みである。

 

 

 

快眠の方法

覚醒との闘い

 やはり今日も眠れなかった。無理やり4時半に起きたので、ずーっと目の奥が重い。基本的な栄養が足りないのかな?と、以前飲んでいたけどやめたマルチミネラル&ビタミン亜鉛強化、というやつを注文してみた。でもたぶんたいして効かないだろう。なぜならば、以前(ていうか1か月前)飲んで抜群に効いていたノニも、今は効果ないからである。

⇧飲んだ翌日から、だるさが吹き飛び、夜中目が覚めなくなった魔法のジュース。…というのも今は昔のお話。

 

 最近では怒りがわいてきた。この間も夜中に目が覚めて、その後しばらく眠れず何度も寝返りを打ち、あげく、がばっと起きて、「ふざけるな!」と思った。「眠れないってどういうことだよ! 運動もしてる。栄養もとってる。朝もがんばって起きてる。暴飲暴食はしないし、規則正しい生活もしてるし、ろくなことがなくても前向きに生きようとがんばってる! 大枚はたいてノニも買った! なのになんで眠れないわけ!?」

 …とひとしきり怒って、もちろんますます眠れなくなった。当然かもしれない。横では、目を閉じた瞬間にノンレム睡眠が得られる奇跡の夫が穏やかに寝息を立てている。これがますます怒りを募らせる。

 同時に、「眠れなくて怒るっていうのは、新しいな」とも思った。今まで眠れなくて困ったことは何度もあったが、怒ったことはなかったなあ、と。そしてさらに同時に、「これはもうあかん」とも思った。眠りに対して必要なのは一にも二にもリラックス。なのに、私ときたら怒っているのである。これはもうあかんではないのだろうか。実際、布団に入って小さいライトを消すその瞬間、最近思うのは「ちっ。どうせ今日も眠れないんだろうよ」というやけっぱちというか、ふてくされた気分である。

「ハウス・オブ・カード」から天啓

 こんなんなってしまったら、二度と安眠は得られないのではないだろうか。眠りについて考えれば考えるほど、眠れなくなる、これは真理なのだ。でも最近の私は、寝る数時間前から、「ああ、今日も…」などと暗くなっている。そして寝る直前はやさぐれている。そして夜中には、怒っている! なんという負のスパイラル。

 絶望的な気分でドラマ「ハウス・オブ・カード シーズン3」を観ていた。そしたら、大統領に作家が、夜中に呼び出される、というシーンになった。

 

大統領「起こしたか?」

作家「平気です。どのみち眠りは浅い」

 

 このセリフがささった。脚本家もまさかこのセリフが一日本人女性の胸に刺さるとは想像もしていないと思うが…。でも、刺さったのだ。

 えーとつまり、「調子悪くて当たり前」ならぬ「眠れなくて当たり前」もアリなのだ、と認識したのである。「ああ、腰に持病があってね」「アレルギー性鼻炎なの」「疲れると胃にくるんだよね」…という、「人がしょうがないものとしてつきあっている、持病の数々」として、不眠も扱えばいいのかもしれない。「治ったらありがたいけど、治らないからこれが普通として生きている」という状態。「眠れないとなにもかも台無し」という考えを捨てるのだ。眠れないということをデフォルトにして、全てを組み立て直すのだ。

 これはつまり、眠りについてこだわらない、すなわち

 眠りを諦める

  ということなのだ。

 そんなことできるだろうか…。でもあのドラマの中の作家は諦めていた。いともあっさりと。あくびしてるところも見たことないし。

 翻って考えてみれば、行き詰ったときの最終的な解決方法は、「諦める」しかないんだよなあ。問題はいかに「前向きに」諦めるか、である。

 

 

dacyu餃子部の餃子

 セラピーとしてのジャム作りを終え、すこしやる気が出たらしく、昨日は餃子を作ってみた。もちろん皮からだ。餃子の皮を手作りすると、段違いでおいしいものができる。それは知っているのだけど、過去数回チャレンジしたときの大変さを思うと、なかなかめったには手をつけることができないお題でもある。

 しかし今回は、まず前から行きたいと思っていた人気の餃子店に行こうと決め、電話して予約がとれず、しかし餃子気分だけは盛り上がったままなので、夫に「作らなくていいから餃子を買ってきてくれ」と言われ、わかった、と買いにでかけている最中に、あれ?作ればいんじゃないの?とふとやる気が舞い降りた。

 それで翌日の日曜、1日すべて費やすつもりで作ることにした。テキストはダンチュウの餃子特集。

 

ここで「いわゆる餃子作りでやらなければいけない、とされていることは、本当に必要なのか?」という検証がされていて、結果、やらなければいけないと定められたもの(ほとんどがそうだった。しなくていいことはなかった)をまとめた、“究極においしい餃子”のレシピが載っていた。

 

いわく、

●野菜は塩もみするか、茹でるかして水分を抜く。

●肉は、まず肉だけで、ミキサーで白くなるまで徹底的にこねる。

●肉は複数の部位があるといい。

●肉と野菜は同量。

●餡は3時間寝かせてから使う。

●皮は必ずひだを作って閉じる。

●熱々のフライパンに入れる。

●差し湯は必ず熱湯で。

 

 がルールである(いくつかオプションはあるものの)。それぞれみんな、「なぜ必要なのか」が詳細に実験、検証&結論づけ、がされていておもしろい。ここ数年のダンチュウは実験モードで、とてもおもしろいのだ。

 これを忠実に守って餡を作る。しかし皮のレシピがない。さらに数年前の、愛用していた別のダンチュウを探したが見つからない。仕方ないのでネットで検索して、

 

薄力粉100g

強力粉100g、

塩少々、

熱湯100g

 

 の配合で作ってみる。こねて、こちらも数時間寝かせる。

 

ちなみに餡のレシピは

 

キャベツ 130g

パクチー(ダンチュウはニラだったが) 20g

バラ肉 90g

豚ロース肉 60g

塩 少々

 

醤油 小さじ1  

胡椒 少々

ごま油 小さじ1/2

砂糖 小さじ1/2

 

 

昔は半日かけて生地を作ってた、たしか 

 過去、ものっすごく苦戦した記憶があるので朝っぱらから仕込み、何時間でも格闘しようという覚悟だった。確か、皮を小さい円にのばして包む、が大変だった気がする。打ち粉をしても、できた皮と皮がくっついて一体化してしまうのだ。市販の皮みたいに紙のようにさらっとしていないので、伸ばすのも包むのもものすごく大変。気がついたら真っ暗になってた、という記憶があるので、それを大量に仕込んでいたのではないだろうか。

 だが今回は、寝かせた皮を伸ばして小分けにして、円形に伸ばす、という最大の難関が1時間かそこらで終わってしまった。まったく扱いやすい生地で、なんの手間もかからなかった。なぜ? 

⇧きれいには作れない。ぶきっちょだから。

 

⇧きれいには作れない。ぶきっちょだから。

 

 たぶん、昔のレシピは水が多かったのだろう。今回は粉の半分というかなり少なめの量で、だからべたつくこともなく、簡単にできた。そのネットのレシピでは、「どんなに水が少なそう、と感じても、決して増やしてはいけません。べちゃついて扱えなくなります」と書いてあった。つまりそういうことなのだろう。粉の半分の水、なら簡単にできるのだ。しかしたぶん……味を考えるともう少し多いほうがいいと思う。ダンチュウに載っていた高田馬場「餃子荘ムロ」のレシピは水と粉が1:1だった!

 実際、できたものは、市販の皮よりはおいしかったけど、もっとおいしくなれたはず、という感じがした。

 餡はおいしかったけれど、調味料もごくわずか、にんにくも生姜もいれないレシピだったので、濃いタレでないと味がしない。ダンチュウではポン酢と大根おろしを一押ししていた。

 

⇧焼く。左端の物体は、餡がややあまったので、ライスペーパーにアボカドとともに入れて包み、焼いてひっくり返したら破れて中身が出てしまった、というシロモノ。

⇧醤油と青唐辛子酢で食べたらなかなか。

 

 思ったほど大変でなかったのと、「最上、最高」の出来ではなかったので、いまいち達成感は薄かったが、まあでも、「次は水分増やして皮を作ってみよう」という課題もできたし、なにより「餃子を食べたい」という人のために「皮から手作りした」というひと仕事感はある。私もまだまだ誰かの役に立つことができるのだ…。

回復の方法

更年期は「調子悪くて当たり前」

 電池が切れていました。

 何もする気になれない…。

 そのうち回復するだろうと思っていたけれど、いつまでたってもだるさが続き、きわめつけはいつも行くお気に入りの書店で、いつも味わうような楽しさが全く味わえず、なんだか不快な情報だけを得て、暗い気持ちで帰ってきたこと。

 もう外にはなんにも楽しいことはないのである、といつも思ってるけど、さらに強く思って、外出して気晴らしだとか、なにかおいしいもの、おもしろおかしいことを発見するとか、そういう期待はとりあえず持たないことにした。やはり家のなかで、さらに言えば自分の中から、おもしろおかしいことを見つけて回復するしかないのである。

 

 そもそもよく眠れないというのが不調の原因。眠くて布団に入るのに、本を閉じて灯りを消すと、全然眠れない。眠っても、2,3時間で起きる。起きたら、またしばらく眠れない。やっと眠りにつくと、また2時間くらいで目が覚める。それはだいたい起きるべき時間の1時間くらい前で、今起きてもなあ…と思ってうとうとしていると目覚ましが鳴り、そのときはものすっごく眠くて、とんでもなくしんどい思いをして起きる。なんとか起きても、そのまま1日、ずーっと眠い。

 この睡眠障害をあの手この手で克服して、ブログに書こうと考えていたのだけれど、ちっとも克服できないので、記事にもできない。

 

「なにもかもがめんどくさい」

 この状態はまさにこの一言で言い表すことができる。なにもかもがめんどくさくなる病気なのかな?と疑って、調べてみたことがあるほどだ。結果、とくに目新しい情報は得られなかった。更年期の女性はよくこうなるという。「家事をするのがやっと。すぐにソファに倒れ込んでしまう」。よーくわかる。つまり、更年期障害ということか。

 昔、近田春夫ビブラストーンというバンドが「調子悪くてあたりまえ」という曲を作って、「うわあ、すごい」と感動してたけど、今こそほんと、「調子悪くて当たり前」な日々である。

 

回復方法その1 ただ漫画を読む

 こうなると、まず「そのまま流れに従う」というやり方がある。ソファに寝そべって、なにもせず、ひたすらに漫画を読む、というやつである。これは1日なら有効だ。それまで、自分で作ったルールをせっせと守って暮らしていたなら、突然なにも守らない日を作ると結構効く。1日寝てるんだか起きてるんだか、みたいな生活をしていても、夜になるとさらにまた眠れたりする。で、翌朝いつもの起床時間にさっぱり目が覚めたりもする。漫画が良作であれば、気力もわく。

 でもこれは2日以降は効かない。ただただ怠惰が怠惰を呼び、あげくに怠惰のために疲れたりする。あれだけおもしろいと思っていた漫画さえ、読むのがかったるくなってきたりする。自己嫌悪が押し寄せ、体中がだる痛くなり、虚しさが倍増する。だから1日以上はやってはいけない、と私は思っている。

 

 けれど、「何もする気になれない」のが1日で回復することはほとんどなく、一度なったらしばらく続く。そしたら、もう、無理やり動いてやる気を掘り起こすしかない。なにかを始めさえすれば、だいたいはそのうち身体が動いてきて、暗い気持ちも遠のき、やってよかったなあ、と思えたりもする。脳科学の本でも必ず書いてある。「行動を起こさないとやる気はわいてこない」というあれだ。

 

回復方法その2 有益なことをする

 掃除機をかける。ヨガをする。洗濯をする、植木を植え替える…「やるべきこと」「やろうと思っていたこと」「やりたいとかつて思っていたこと」を思い出し、優先順位をつけてひとつひとつ片付けていく。

⇧とりあえず、貧弱な鉢に入ったままちっとも成長しなかった観葉植物を大きな鉢に植え替えてみた。数ヶ月後にはこの鉢いっぱいに育つはず…。

 

 大事なのは、「確実に有益なこと」であること。つまり、私の場合は、ベランダの枯葉を片付ける、はいいけど、パンを大量に焼く、とかは避けたほうがいい。パンを大量に焼く。それは楽しい。でも、焼いたはいいけど、食べる人はほとんどいないという状況だとしたら? 自分は今、炭水化物をなるべく避けていて、家族は夫ひとりしかいなく、配りまくる近所の友人もいない…となると、台所にどーんと置かれた大量のパンやお菓子は、より強い気鬱の原因になりうる。「なにしてんだか…」となってしまうのである。それは憂さ晴らしのやけ食いとか、衝動買い、ゲームに埋没する、に近いものがある。やったあと後悔すること、やってもいいことがないこと、は絶対に避けるべきなのだ。それはさらに私を不幸にする。

 「やってよかった」「ひとつタスクが減った」「やればできるのだ」ということを、無理やりやるのが大事だ。終えたあとの達成感が回復につながる。

 

掃除はそりゃあ効く

 掃除はとても有効だ。もともと掃除、好きでもないし得意でもないので、家のなかにはつねに「気になる場所」がある。そこを、とりあえず一箇所だけ、きれいにする。小さい範囲に限定すれば、掃除が苦手な人間でもこなせる。小さい範囲ならすぐ終わって、すぐいい気分になれる。掃除と整理整頓は頭と身体の両方を使うし、なにしろ終えたあとの爽快感がすさまじいものがあるので、「気が滅入ったら掃除しよう」というのはひとつの救いになっている。ただ「やろう」と決心するまでが遠いのだけど…。掃除嫌いだから…。床の雑巾がけとか、かなり効くのだけど、なにしろやり始めるまでの闘いが大変だ。つまり、効く作業ほど、やるまでの葛藤がつらい。ま、そういうものか。

 でも一箇所片付けたら、「じゃあ明日はあっちを、あさってはこっちを」と芋づる式にやる気がわいてきれいになっていくので、これはとてもいいと思う。

 とはいえ、なにしろ苦手なので、掃除と整理整頓についてここで書くべきような知恵だの発見だの工夫だのはなにもない…。

 

心に効く二大保存食

 保存食作りというのもよくやる手だ。パンを大量に焼いても始末に困ってかえって哀しくなるが、保存食は保存できるので無駄にならない。あと、だいたい黙々と鍋につきそってる、みたいな作業が多いので、心頭滅却?なんだかそんな気持ちになるのである。一つの作業をずーっとやる、という作業はとくにいい気がする。黙々と床を磨く、黙々とカチコチになった植木鉢の土を掘り返す。黙々と字を書く。黙々と走る。そして黙々と鍋をかき回す。

 料理部門ではふたつある。「心に効く二大保存食」と私が勝手に決めているもの、それはジャム作りと飴色玉ねぎ作りである。

 

 今回はジャムにした。春から初夏にかけてはジャムの季節なので忙しいのだ。数々の柑橘類、いちご、アメリカンチェリー、プラム、梅、杏…常日頃スーパーの値段と質を見比べて、「いまだ!」というとき、つまり一番安くていちばんものが良いとき(だと信じたとき。よく見誤る)に大量に買い込んで煮る。よく「ジャムってあまらせちゃって困る」という人がいるけれど、私の場合、毎朝ヨーグルトとグラノーラを食べるので、必需品だ。だからどれだけ大量に作っても、困ることはない。無駄にもならない。大量に作って、ちびちびと、えんえんと、1年かけて毎朝食べるのである。

 素材の果物はスーパーだけでなく、ときにはネット通販で4kg5kgと買い込んだりする。今はニューサマーオレンジが旬で、楽天で安かったので思い切って4kg買ってみた。それがおととい届いたので、この気鬱なときこそ仕込もうではないか、と無理やりやる気を出してみたのである。

 ⇧無農薬だから見かけは悪い。

ニューサマーオレンジの賭け

 ニューサマーオレンジはグレープフルーツみたいに少し苦くて甘い。果肉がぷるんとジューシーでゼリーのようでとてもおいしい。以前これとレモンとドライアプリコットをかけ合わせてジャムを作ったら、予想外においしかったので、今度は4kgと大量に買ってみた。ここは初めて買う店で、賭けであった。でもいつも店のメルマガを読んでいて、すごく丁寧に無農薬栽培をがんばっている様子、毎年いろんな柑橘がそれはもうおいしそうに育っている様子がひしひしと伝わってきたので、安心して思い切って大量購入してみたわけである。

 

 そして、賭けには負けた。

 ここのところ、不要なものを間違えて買ったり、期待はずれだったりと、いろいろとついていなかったのだけど、案の定、ニューサマーオレンジは失敗だった。かなりの数がパサパサだった。しかも、ものすごく皮がぶあつくて、むくと実がびっくりするほど小さくなってしまう。なんだこりゃ…。スイカの皮か…。

 

 あれほど熱く描かれたサイトの文章や写真はなんだったのか? あんなに丁寧にがんばって作っても、こんなふうになってしまうこともある、ということなのだろうか? 柑橘は皮をむくまで中がわからないから、本当に賭けだ。だから「検品不足だ」と店の人を責めることもできないし、もうほんと、運を天に任せるしかないのだが…。こんなとき強く思うのは、「人はどれだけ、“俺はこれだけがんばってる”と思っても、空回りしてしまうものである」ということである。「自分で思ってるほど、結果は伴っていないものである」ということである。

 偉そうに、誇り高く、自分の仕事について語る人たちの多くが、「かなりテキトー」な仕事をしていたりする。こっち側は確かに完璧だけど、あっち側はぼろぼろ、なんてことも多い。自分も含めて、そういう人をたくさん見てきた。だいたいは悪気はない。本人的にはなにも矛盾はない。ただ単に「見えてない」だけなのだ。ある種の死角というか。人は完璧ではない。適度に自分に甘く、誇りなどもある程度持っていたほうが人生楽しく過ごせるから、みんながみんな自分に最高に厳格である必要もないのだが。

 そんなことをあれこれ思いながら、自分の人生も振り返る。…なんかせつない。

 

いろいろ思いつつ作業開始

 あーあ。パサパサの柑橘って、ほんとうに気が滅入るよなあ…とぶつくさ言いながら、もくもくと皮をむき、種を取り出し(これがまたえらい量で、果肉のほとんどが種なのでは?と思ったり…)、小房にわけてボウルに放り込んでいく。皮もざくざく刻んで鍋に入れる。すべてがパサパサではないから、この人たちになんとかがんばってもらって、最終的においしいジャムになってくれ…とほとんど祈りながら作業する。

 

 今回、ニュサマーオレンジのジャムを作ろうと思ったもうひとつの理由は、この柑橘に限っては、「皮のゆでこぼしがいらない」という情報を得たからである。柑橘はあくが強いから、普通は茹でこぼしを3回し、さらに一晩水につけなければいけない。もちろん、すごくめんどくさい。それが、不要だというのだ! えー!? ほんとに!? 驚いた私は、作ってみたくてたまらなくなって注文したのだけれど、よく考えたらその情報も、この店から得たものであった…。急激に店への信用が落ちたので、鍋に入れた生の皮を見つめながら、「ほんとに大丈夫なのかな…」ととても心配になる。店の人の言葉としても載っていたが、レビューにも載っていたことなどを思い出す。「茹でこぼしがいらないので本当に楽です」。その言葉を信じるしかない。

 

お供はEテレ「100分で名著」

 私はお菓子やパンを作るときは、録画しておいたEテレ「100分で名著」という番組を聞きながら(位置的に、台所からテレビ画面はよく見えない)作業する。古今東西の名著と呼ばれる作品を、先生に解説してもらいながら、伊集院光NHK女子アナと共に読み解いていきましょう、という番組である。画面を観なくてもいいから、作業中のBGMとして最適なのだ。名著をテレビでさくっと解説、という番組を観てるというのは恥ずかしいのだが、しかし私はこの番組がかなり好きで、もう何年もこれを聴きながらお菓子を作ってきた。この日は三木清の「人生論ノート」だった。

「幸福と幸福感は違うのです」

 などという、難しい言葉を聞き、戦時中に思想を貫いて投獄され、終戦したにも関わらず、釈放されずに獄死、というすさまじい彼の人生に感銘を受けつつ、4kgのニューサマーオレンジの種をとり身をほぐし皮を刻み、計量をしてその半分の砂糖を投入していく。三木清の回を3回観て、そのあと「三国志」の回に移った。1本25分だから×4本で2時間。

 

加熱開始

⇧やっと第一段階終了。今回も味にこくを出すためにドライアプリコットを入れた。酸っぱいのが好きなのでレモンも入れた。砂糖をまぶしたら、自然に溶けるまで数時間放置。砂糖の浸透圧で果物の水分が出て、その水分で砂糖が溶けるのをしっかり待つのが大切。一晩おいてみる。

 

⇧溶けた。

 翌日、「美味しくなりますように…」と必死で祈りながら、加熱開始。皮や身が透き通って、とろん、とするまで煮詰める。糖度計はめんどくさいから出さなかった。ジャムはフレッシュなおいしさを大切にするために、強火で短時間でさっと煮るべし、とどこにでも書いてあるのだけど、あんまりさらさらしていると、やっぱり実際食べるときに、「なんか違う」と思ってしまうので、ある程度は煮詰めたい。4kgの果物+その半量の砂糖、だと、どんなに強火でもかなり時間がかかる。焦げるので絶えずゴムベラでかき回していなければならない。アクもひかなければならない。なので、鍋から離れることはできない。だいたい「100分で名著」を聴いているか、または本を持ってきて読みながらかき混ぜる。

 しかし、このジャム、全然アクが出ない…なぜだろう? “ニューサマーオレンジは茹でこぼしをしなくていい”はやはり正しいのだろうか。正しくあってくれ…。

煮たあとにまたひと仕事 

⇧40分後。身や皮が透き通っている。正直、やや煮すぎ…。ということに、瓶に詰めるころ、気づく。この見極めが難しい。

 煮上がってから、またひと仕事待っている。私は柑橘は果汁を絞らず、房ごと使うので、今回はすべて房も皮もざっくりとだけ切って煮る。そして煮上がったらミキサーにかける、という手順。これから熱い鍋の中のものを、ミキサーにうつしてかけなければいけない。小さいミキサーにかけてはボウルにあけ、かけてはあけを何度も繰り返す。面倒だ…。ものすごく面倒だ…。でも面倒であるほどセラピーとしてはよい。こういう「しちめんどくさい」作業を、心を決め、腰をすえてやることで、荒立ってふわふわと落ち着かなかった心が凪いでくるのである。「ああ、めんどくせえ」と言いながら作業する。言いながらすると、なんかめんどくささが減る気がする…。

 ミキサーにかけたものを味見をしたら、祈りが届いておいしかった! よかったあ~よかったよ~!と声に出して喜び、しかしもう少し酸味が欲しいので、レモンを2つ追加。

 そして、鍋に戻して殺菌のために再加熱。ジャム状になったものを沸かすと、マグマのように噴出して非常に危険だ。ここまで来るとさすがに嫌になってくるが、あと一息なのでこらえる。殺菌した瓶をずらりと並べて、詰める。

 

 完成!アプリコットを入れたからニューサマーオレンジの鮮やかな黄色とはちょっと違う色になったけれど、きれいである。瓶に詰められたジャムは本当にきれい! 達成感を味わう。あとはこのやたらとでかい銅鍋を洗えば作業終了。

 

がんばったらツキがやってきた

 一生懸命ジャムを煮ていたら、いいことがあった。ずっと前に応募して忘れていた、キュレル現品プレゼントが当たったらしい!

 

↑なにやら立派な箱に入って届いた。もう、やたらとうれしい。箱も立派だからさ再利用しよう、などと思っていたら、“この箱を詰め替えパック入れなどに使ってください”とか書いてある…。ああ、もう日本人って…。

外に出るとおもしろいことにあえるものだなあ    代々木八幡篇

「鼻の通るパン屋」ルヴァンへ

 渋谷からNHKを抜けて富ヶ谷交差点までてくてく歩く。「腐る経済」の著者、渡邉さんが「ここに勤めたら(小麦アレルギーと思われた)鼻のぐずぐずが治った」というパン屋さん、「ルヴァン」に行くためである。

 「ルヴァン」と言えば、天然酵母パンの草分け。パン好きには超有名店だが、そういえばここのパン、食べたことなかったといまさら思って、近いうち行こうと決めていたのだ。

 

 ここの店主の甲田幹夫氏はパン焼き人であり、思想家でもある…と言っていいほど、生き方に芯のある人である。パン焼きという仕事も、彼がはじめて出会った「矛盾のない仕事」だったから(以下のインタビューから引用してます)。焼き損じたパンも、昨日のパンも、捨てない。値引きして売る。自分と他者をわけない。味よりも人のほうが大事…等々、正直、私のような汚れた人間には縁遠い店かもなあと思っていたのも事実だ。ただ、「パンを捨てない」という考えにはものすごく共感していたのだけど。

 

005. ルヴァンの甲田幹夫さん | パンラボ

 

捨てるべきか、捨てざるべきか

 私が数年勤めていたカフェは、老舗の有名店ということもあって、ものすごく厳格で完璧なおもてなしをする店だった。すごくいい材料を仕入れて、ちょっとでも不安要素があれば、どんどん廃棄する、お客様にはつねに最上のものを、という姿勢だった。

 私は客としてもその店が大好きだったから、そんなバックヤードを見て、「さすがだなあ、これが日本の理想の客商売だなあ」などと思っていたのだが、同時に、毎日大量に出るロスを見て、「もったいなさすぎる…」とも思っていた。「品切れを出すくらいなら、ロスにしたほうがいい」という考えだから、暇そうなときでもがんがん仕込む。そしてあまる。飽きが来ないようメニュー替えもしょっちゅう行う。だから切り替えのときがくると前のメニューの食材がこれまた大量にロスる。

 レストランなんかでは、あまった食材で「本日のスープ」を作るなどアレンジがきくけれど、なにしろ大きい組織なので現場の判断でメニューを作る、変えるなんて考えられない。だからロスる。どういうわけか、サンドイッチ用、トースト用のパンは角食ではなく、ともに丸、および楕円形だったため、スライスすると左右に大量に小さな切れ端が出る。それも全部ロス。使用食材(原材料も店で作ったものも)は菌検査に出し、決められた日数(だいたい2~3日。ジャムですら、7日)が過ぎたらロス。それは当たり前だけれど、つい検査に出しそびれた食材というのもあって、そういうものは念のため、すべて2日で廃棄。どれだけ火を通しても、見た目が変わらなくても、廃棄。もちろん、見た目が崩れたもの、イレギュラーなものも、がっつり廃棄。

 

 食べ物は人の命に関わるものだし、ここは夢を与える店なのだから、本当はこれほど厳格じゃないといけないのだなあと感心していた。学生時代にアルバイトした飲食店なんかは「もうここのものは食べるまい」と決心するような店ばっかりだった。していたけど、「もったいないよなあ」ともいつも思っていた。ロスの食品は従業員が持ち帰ることができるのだけど、あれもこれも使えるから、と山のような荷物を作って持ち帰るのは私だけだった。みんなが私のように意地汚くなかった、ということなのだが、それ以前にみんなだいたい、食べることにそこまで興味がない、もしくは、毎日猛烈に働いていて、持ち帰った食材であれこれ料理するなんていう余裕がそもそもないようだった。

 そんなこんなで、飲食店をやるってことは、食べ物を作ることでもあるけど、同時に同じくらい捨てることでもあるのかも? と思っていた。こんなに流行っている店でも、これだけ廃棄しているのだから、普通の店だったらもっと捨てるのかも、と…。私に、そんな仕事できるのかな?と。実際、あの厳格な店にいると、すぐ「もったいない」とか「持って帰ります」と言う私は、単なる不衛生で非厳格な、強欲人間のように思えて、いつも気恥ずかしい思いをしていた。

 

 

 そんなわけで、「決して捨てない」(これは「料理通信」2017年6月号より)「ルヴァン」のようなパン屋さんは、私には光明に思えたし、最近広島の「ドリアン」のような“捨てないパン屋”が新たな潮流になっているというのは、ちょっとした感動でもあった。そう、大企業は無理でも、個人店なら、ちゃんと安全に配慮しながらも「捨てない店」を作ることは可能なのだ。

www.asahi.com

 

「いつかお店をやるために」という理由で「自分が好きな店の、裏側を見てみたい」というのが、この店に勤めた理由だった。だが、同じ飲食店でも、大きな店と小さな店ではいろんなことが違う、しかも根本が違う、ということが、ここで学んだことだった。

 

シンプルなのに斬新な玄米キッシュ

 そんな万感(?)の思いを抱えて来た。「ルヴァン」は店に入る前から、もう「捨てない」店であった。

 

大量のダンボールがたたんで置いてある。「ご自由にお持ち帰りください」だ。上のフリーボックスには、家庭の不用品をいれてください、とある。使いたい人がいるだろうから、ということだろう。片側の店頭では、エコライフ関連のフライヤーがたくさん。

店内には「昨日焼き」のパンが2割引で。その他、「捨てない」「もう一度使う」「とことん使う」「みんなで使う」のエネルギーが充満している、なんか熱気がすごい店であった。まあいわゆる「エコ&オーガニックな店」だね、と言ってもいいのだけど、なんというかこの店はそこいらのエコショップとは熱量が違う。なぜならば、あまりにもエコな店って(上記のようなことを言いながらも)、私は結構引いてしまうのだが、あまりにも徹底していて、なんの拒否感もわかなかったのである。「わかりました…そこまでのお覚悟がおありならば、わたくしもお受けいたしましょう」と、戦国時代風に受け止めてしま店であった。

 

 店内にはパンのいい香りと、いろんなものが雑然とあふれている。そのせいか妙に味の濃いパンが食べたくなり、ライ麦パン(正式名は忘れました…)と玉ねぎパイを買う。店員さんがおすすめしていた「ルバーブのパイ」は、色味全然なし、そのあまりにも地味なルックスに軽く驚く。しかし、この店は別にこれでいいのだ。と思うと、逆においしそうに見えてくるから不思議。そういえばネットで誰かが「ここの玄米キッシュにはまって一時期毎日通っていた」と書いてたな…。でも今日はないのかしら。

 

 隣にはカフェ「ル・シァレ」が併設されている。

「ル・シァレって『山小屋』という意味なんだけどね。
山小屋は、泊まりたいという人を決して拒否しちゃいけないんだよね。
拒否したら死ぬということだから。
だから、どんなに人数があふれかえっても、とにかくみんなで詰めて詰めて山小屋に泊まって。
食べ物がなかったり装備がなかったら、みんなで貸してさ、暖をとって、一夜を過ごす。

 

 

…というところからついた名前なのだそうな。なるほど…すべての人を受け入れる店。なんか深いなあ。芯があるなあ。芯がある人はなにをやっても、芯が垣間見えるなあ。

 …ということは、家に帰ってぐぐって知ったことなので、このときは、かわいらしい小屋だなあと思いながら席につく。椅子がものすごくぐらぐらしていたので、席を変える。常連さんらしき女性はすぐに去って、客は私ひとり。

 

 

 トイレに行くと、こだわりのトイレットペーパーを1巻80円で売っていて、どこまでも徹底していることを確認。ちなみにトイレのドアハンドルもぐらんぐらんで、すぐにとれてしまいそうだったが、いいのだ。この店はこれで…。

  オーダーは「玄米キッシュプレート」。さっき店で見れなかったので、気になっていたらしい。あまり深く考えず、卵と牛乳のアパレイユに野菜や玄米がちらしてあるのかなくらいに考えていたのだが、実際は違った。

 

 想像とかなり違うものが来た。玄米ぎっしり。アパレイユどころか、ただおにぎりを詰め込んだようにも見える。上にチーズ。なんかすごい。プレートにはさらにレーズンパンまでついて、わけあって糖質オフ生活を続けていた私は、糖質解除した身の上とはいえ、「なんという炭水化物量だ…」と思わずひきつつ、口にいれる。

 う、うまい! 

 想像よりもかなりうまい! 「はまって毎日買いにいく」、なるほどわかる! ごはんが妙に香ばしくて、ほんのり甘くて、これにチーズ、パイ生地が合わさると絶妙にあう。なんだこれは…。見た目も斬新だけど、味もすごいな。ちょっと感動。

 それでデザートがわりにこの甘いレーズンパンを食べるということね…ああ、こちらも、もちっとしてうまいなあ。「味より人」と言いつつ、こんなにうまいんだから素晴らしいなあ。

 

「あのー、ごはんがキッシュに入ってるって、珍しいですね」

 好奇心がおさえきれず、お姉さんに尋ねる。お客さんが他にいなかったし、誰でも受け入れる山小屋というだけあって、なんだかお姉さんも空間も、すごく話しかけやすい雰囲気なのだ。お姉さんは「そうですよね。これ、ほぼごはんですものね」と笑う。

「おいしいですねえ…」

「おいしいですよね。ちょっとドリアみたいで」

「あのー、どうしてごはんを入れようと思われたんでしょうか」

 さらに質問。いや、私には思いつかないなあ、キッシュにごはんをぎっしり詰めようってのは…。

「どうしてでしょうねえ? うち、まかないはごはんなんですよね。それがあまって入れてみようかってなったんだったかな…?? 違ったかな? まああとは、日本人だし、ごはん食べようよ、っていうのもありますよね」

「黒米とかいろんなお米が…」

「そう、雑穀いろいろいれて」

「ごはんがなんだか、すごく甘くて香ばしいんですが…」

「あ、それはね、玉ねぎと人参で炒めてるからなんですよ。ごはんだけじゃないんです」

 なるほど、そのごはんにチーズが合わさって、ドリアっぽい味になるのか。いやでもさらにパイ生地も合わさると、本当になんともすごいハーモニー。構造と素材はかなりシンプル。でも発想がとても斬新。そしてすごくうまい。これは理想の食べ物かもしれないなあ。

 しかし、これ全部食べるのは罪深いだろう、そしてこの斬新な品を夫にも食べさせたいし、と思った私は1/3残してペーパーに包み、さっき買ったパンの袋に入れて持ち帰ることにする。

 

 

⇧おいてあった「暮らしの手帖」の記事によると、オーナー甲田さんは、ふんどしをしているらしい。芯のある人は……。

 

  帰りは代々木八幡に寄って帰ることにする。神社好きの私のなかで、ここはかなりの高ポイントスポットである。神社の特徴である木々の“鬱蒼ぶり”が、とてもよいのである。中に入ると薄暗く、ひんやりとして、空気が清浄だ。

 教会が内部に宇宙を描こうとしたのなら、神社はその森を使って宇宙を表現しているのではないだろうか。勝手に思ってるだけだけど、そこがとても好き。お寺だとちょっと整然としすぎていることが多いが、神社は適度に適当で、何事もやりすぎず、自然にまかせている感じがよいのだ。

 

 

 しかも、ここにはなぜか竪穴式住居もある………。不思議だ……。

 

 すっかり体内の気が入れ替わったような気になって、帰宅。

 帰宅したとたん、夫へあげるはずのキッシュの残りを、むしゃむしゃと食べてしまう。…がまんできなかった。冷めてもやはりうまかった。

 

 翌日、買ったライ麦パンにたらこ&サワークリームよしながふみの漫画『きのう何食べた?』に載ってた)をつけて食べた。

 

 

 

 

 

 

外に出るとおもしろいことに会えるものだなあ 渋谷篇

「潜入者」を観に、渋谷へ

  珍しく外出モードなのは、やっぱり5月のさわやかさのせいだろうか? まだ腰が治りきっていないのにもかかわらず、ブライアン・クランストンの主演作が公開されて我慢できずに渋谷ヒューマントラストシネマへ(すごい名前の映画館だよね…と夫)。

 「潜入者」という、囮捜査官の命がけの潜入捜査を描くクライム・サスペンス。できれば近寄りたくない渋谷に、無理して出かけたわりには「トランボ」ほどは面白くなく…いや、おもしろかったが期待が高すぎたか…、若干フラストレーションを抱えつつ、めったに来ない渋谷をぐるりと見渡す。

 

たまには渋谷でお茶を飲もう

 なにしろパルコがないし、あの店もなければこんな店はできたんだ?と浦島太郎な感じ。でもやっぱり再開発なのだろうか。取り壊しのビルが妙に目につく。はやく去ろうと思いつつ、めったに来ないしなあ…と迷っていたら、すぐ目の前に「cafe Mame-Hico カフェ マメヒコ」の看板が。

“一目置かれている店”“一度行くべき店”としてよく名前のあがる店である。確か昔「行きたいなあ…でも渋谷と三軒茶屋か……」と諦めていた店である。

 二度と来ないかもしれないので、入ってみることにした。さくっと事前調査したら、「珈琲1杯880円、ハムエッグやら特製のパンやらを頼んだら軽く2400円くらいして、驚き。でもその価値はあるクォリティ」的なことが書いてある。要はすっごく高くて、おいしいらしい。どうしたんだろう、そういう店、最近はまったく参加しなくなったのだが、この日はなぜか払ってもいい気になっていた。

 ビルの二階に入ったら、ものすごく高い天井にシックなインテリア、贅沢なカフェだなあ、と驚く。公園通りでこの広さ(高さも面積も)、家賃はいくらだろう? ながーい大テーブルが、薄暗い店内にあり、そのテーブルに置かれた客同士の目隠し替わり(?)にもなる大きな花瓶に大きな花、いかにも天然木、などっしりしたテーブル、壁を囲む棚…ものすごく趣味がよくてものすごくお金のかかってそうな…。これは「居心地」だけを求めるお客さんがいてもおかしくないかも、という空間である。なるほど、珈琲1杯880円かかるかもね…。

  が、メニューが来たら、いろいろある珈琲は420~560円とか、そんな価格帯であった。しかし、かわりに席料がかかるという。時間によって値段がかわる。朝から夜にかけてだんだん値段があがる。昼は200円だった。…なんかすごい難しい店なんだなあ…とめんどくさくなりかけるが、席料足しても1杯600円程度だし、他のデザートやフードも良心的…というか、安いくらいの価格帯なので、まあいいや、と思う。それにしても、価格をあげるのはよくあるけど、下げる、しかも半額近くまで下げるっていうのは…なんかすごいなあ。

  マメヒコというだけあって、日本の「豆」にこだわる店らしく、「豆かん」がある。あんこ入り、アイスのせ、いろんな種類があり、その全ての素材にたくさんのこだわりが書いてある。豆はどこどこ産で、こんなふうに煮ていて、アイスはどこどこの牛乳を使い…等々。「うーん。めんどくさい…」

  基本的にどちらかというと私も相当めんどくさいタイプで、あれはここのメーカーじゃないと、とか、作り方はこれがコツなの、とか言い立てがちではあるのだが、なんだろうこれも年のせいか? ほぼすべてのメニューにびっしりとこだわりが書いてあって、なんかもうどうでもよくなってきてしまう…。この説明の文章が「僕が好きなのは~」「僕が選んできた~」「これは僕が発見した味で~」という体裁で、「僕って誰?」という意地の悪い疑問がよぎりつづけていたのも、めんどくささに拍車をかけていたのだと思う。

 それでも豆かんは大と小があり、小はなんと250円で、しかも皿の半径は14cmくらい、というので、それはお得なのでは?と思って注文する。

 

⇧で、来た。なかなかきれいなおやつである。奥の写真は店内の様子。珈琲も想像以上に大きなマグで来た。

 浅煎り、深入り、超深入りの3種あって深入りを頼んだのだが、ひとくち飲んだら、浅煎りにしたっけ?というくらいあっさりさっぱり。でも薄いわけではない。いい意味で麦茶のような…などと思いながらごくごく飲む。ごくごく飲んでしまう珈琲なのだ。

 豆かんは、寒天はやわらかすぎて好みとは違っていたけれど、豆はおいしい。やわらかさ加減、豆自体のうまみ、それから甘み。どれもちょうどいい。あんこは、普通にうまい(すっごくおいしいあんこ、ってちょっとやそっとでは作れない)。ふーん、と思いながらまた珈琲を飲む。そしたら、一口目より二口目のほうが俄然おいしくなってて、驚く。そういう珈琲って、飲んだことなかったので。あら、これはすごいかも、と思いつつ、入り口に雑誌があったのでひまつぶしに取りにいく。

 

特濃な「僕」の世界、「M-HICO 」 

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 それは「MーHIKO」といううすーい雑誌であった。雑誌というか、フリーペーパー? いや700円もするから(かつてはフリーだったらしい)、冊子、かな。これまでに何冊も発行されているらしく、バックナンバーの数がすごい。でも表紙はほとんど同じ男の人である。この人が「僕」=オーナーなのだろう。

  偶然1号目を手に取った。2006年、けっこう前だ。長生きしている店なのだなあ。表紙、でかでかと「僕」が。裏には、井川啓央氏の名前が。編集、執筆、写真、つまりぜんぶ、みたいなクレジット。中に、雑務係井川が、オーナーにインタビュー、という巻頭記事。井川氏はオーナーの熱烈なファンかなにかなのだろうか…と思いつつ読み進めると、なんのことはない、この井川氏がオーナーらしいのだ。つまり全部自分で手がけてこれを作り、自分で自分にインタビューまでしているのだ。そしてこの表紙。こ、濃い…。そのあまりの「僕」の濃度にめまいがした。

 おそらく超有名人なので、昨日彼を知った私が説明するのも野暮なのだが、いちおうここで知ったことを書くと、

 この「僕=井川氏」は、もとフリーのテレビマンだという。なるほど、マスコミの人か…なんか妙に納得。しかし、テレビマンだった男がなぜカフェをやろうと思ったか等、そのいきさつはおもしろく読ませていただく。すごく簡単にまとめてしまうと、ちゃんとお客さんを喜ばせることのできる仕事がしたくなった、ということなのだが。

 嫌いな言葉は器用貧乏、というほど、やることなすこと、平均以上にできてしまう、でもどれもつきつめないという性格だと言う。ふむふむ。最近あまりにも個性を主張したカフェが多すぎることに疑問を持つとも。店は脇役でいいのだ、と。ふーん?? 「お前が言うなって感じですけど」。うん。ほんとに。でもこういうバランス感覚だから、趣味がいいけどいやらしくはない、ぎりぎりのラインを保てるのかもしれない。そして飲食店ははじめてすぐに後悔した、とも。「ずーっと追われてるような感覚」があるという…。そうだよね…。毎日お店を開けるって、きっとそういうことよね…。

 

 この店はNYのブレッドカフェ「ル・パン・コティディアン」をイメージしてできたという。だから大きなテーブルがあるのだそうだ。私もこのお店の、まさしく大きなテーブルがどーんとある感じが大好きだったので、読んでうれしくなる。

なので、ソルト&ペッパーミルは、この店と同じものなのだそうな。塩が出にくい不完全な商品らしいのだが、あえて替えない。「出ないんですけど」「そう、これ出ないんですよね」と客と店員が一緒になって四苦八苦したりするのもいいし、ある外国人客は、ふたを開けてみんなで塩をわけあっていて、それが微笑ましい姿だった、とか、そんなことがいいと思ってる、と。日本の感覚だと、こんな不良品はすぐに取り替える、だけれど、細かいことにこだわりすぎるのは日本人のよくないところ、と思って、あえてそのままにしてる。

 へーえ、なんかおもしろいなあ…。

 と思ってテーブルを見渡すと、

 

全然違うミルがおいてあって笑ってしまった。

まあ、かなり長い時間たってるから、なんらかの理由で変わったのでしょうね。

 

 とにかく癖の強い人だ、ということはよくわかった。「僕」を押し出すことに屈託がないというか、「こんな男、嫌ですよね」と笑いながらなおも押す、というか…。でもこういう鬱陶しいほど個性的な人が、楽しく行きていける時代なのかもなあ、いまって、と思う。ITを駆使して自分をアピールして、興味のある人だけ集めて、世界を作ればいい。別に「一般的に」受け入れられなくても、「わかりやすく無難なもの」を作らなくても、充分に生きていけるのだ。そしてそれは、驚くほど安上がりにできてしまう。

 これは「平均からはずれた人間」にはものすごい朗報である。

 外に出ると、おもしろいことにあえるものだなあ、と改めて。

 

 おもしろい人に会って、こちらも多少エネルギーが湧いたのか? 腰が痛いけれど、代々木八幡方面まで歩くことにする。

NHKを眺めながら歩くと突如、代々木公園が異世界のように現れる交差点、これがけっこう好き。

⇧その手前には、巨大な美しいギボウシのあるグリーンショップ。

あちこちの新緑が目に気持ちよくて、バスに乗らずまだ歩くことにする。

続く…。

 

おまけ。

 帰宅後、彼についてぐぐってみたら、すごい情報が山のように出てきた。

www.alphapolis.co.jp

ここでは、その驚きと創意工夫に満ちた井川氏の半生が読める。フリーペーパー作って自分で自分に取材してるなんて、序の口であった。この人は別にITが発達してない時代でも、一仕事やる人であった…。

 しかも今は映画も作ってる。もちろん製作監督脚本、全部井川氏。いったいどこからこんなエネルギーが湧いてくるのだろう。

 先週、20年くらい髪を切ってもらっている美容師さんが、夜12時に寝て4時に起きる生活を、ごくフツーにしていることを知って衝撃を受けていたのだが、そしていつでも「41 歳くらい」に見える彼が51歳であること、そして体力の減退を感じたことが「いまのところない」ということなどにも、目を見開いて驚いたのだけど、なんかあのときの衝撃に似たショックに襲われる。すごいなあ。私は8時半に寝ないと4時には起きれないし、なんならときには5時すぎまで寝てたりするし、とくに立ち仕事はしてないが、40歳すぎたら毎朝体力が減ってる気がするし、見た目は年齢相応だ。どれだけ人生損してるのか…。

 と、考えたところで、こうゆう思考がもっとも自分を腐らせると最近知ったので、やめてみる。ないものねだりはいいことないからね。

 

 

 

大久保カレー&スパイス散歩

スパイシーカレー魯珈に行ってみた

 

 大久保はスパイスを買うため、たまーに行くのですが、しばらく行かないうちに、カレーの大人気店ができてたらしい。みんなが動く週末はじっと我慢し、月曜になったのででかけてみる。ついでに、治りかけの腰には歩くのがいちばんよい気がするので、散歩も兼ねて。

 

 カレーの店は「スパイシーカレー 魯珈(ろか)」。東京駅のおいしいカレー店、「エリック・サウス」に7年いたという女性がひとりでやっている店らしい。そこで修行したカレーと、さらに彼女が愛してやまない魯肉飯(ルウロウハン・台湾の豚バラ煮込みかけごはん)の両方が食べれるという……個人店って、好き勝手やれて本当にいいなあ。

 昨年12月にオープンしたら、立て続けにテレビ取材が来たらしく、あっという間に大人気店に。おかげで月曜の昼でも並ばなければならない…。

 

 

 小さな小さな店で、ほそーいカウンターにぎゅっと並んで食べる。この狭さでは店内撮影は不可能だ。なかなかかわいい店なのだけど…。

 

 へそ曲がりだからなのか、名物魯肉飯&カレーが一緒に食べれる魯珈プレートではなく、カレー二種盛りにしてしまった。ちょっと後悔…。でも魯肉飯とカレーがけんかしそうな気がしてしまったのだ。ああ、でも両隣の人がともにプレートを食べていて、うう、味が知りたい…と激しく後悔。

 

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 2種のカレー、私は一押しというラムカレ(左)ーと本日のカレー、カリ・サピ。インドネシアの牛肉カレーだそうな。これはグリーンカレーのようだった。ココナッツミルクの味がした気がしたが、キャンドルナッツでこくをだした、と書いてある。おいしい。ラムカレーはスパイシーですっぱくて、どんぴしゃり、私の好み。玉ねぎのアチャールを大量に一緒に食べると、なおすっぱ辛くて、おいしい。なるほどー。人気店になるだけあるなあ。

 

 店の外にはずらずら人が並び、店内はぎっしり人が座ってて、それをたったひとりで女の人が切り盛りしている。カレーを用意し、客と会話し、電話に出てテイクアウトの注文を受け、カレーをサーブし、会計をし、テーブルを片付ける。これらを急いでるふうもなく、しかし猛スピードで、笑顔でやっている。これはすごい技なのではないだろうか?

 

 この愛のフライヤーを読めばよくわかると思うのだが、このオーナーさん、かわいらしくて情熱的、驚くほど感じのよい人である。人は、ここまで感じよく人をもてなせるものだろうか?と文語的に疑念を呈してしまうほど、完璧で素晴らしい接客。明るい、元気、気配りあり。お客さんも彼女と話すのが楽しくてたまらないようだ。カレーの話とか大久保という場所についての話とか、いろんな人とずっと会話している。ものすごい空腹でやってきた私は、さらに20分外で待ったあとだけに、「ああ……そうやってあなたが店主に話しかけると、私のカレーを作る時間が……」とまた狭量な考えを抱きながら、じっとカレーが来るのを待っていたのであるが…。

  チャイやラッシーも飲みたかったのだが、全然まったくここでくつろぐという雰囲気ではないため、諦める。

 

 おなかいっぱいでふうふう言いながら、新大久保のスパイスエリアへ向かう。新大久保駅の手前、マツモトキヨシの脇の道を左(向かって新大久保駅の場合)に曲がると、インド&イスラムエリア。大久保自体がかなり異国雰囲気満載の場所だが、なかでもこのストリートのエキゾチックさときたら…。家の近くにこんな場所があるなんて、本当に不思議だ。

 

「スパイス料理をいろいろしてみたい。でもスパイスってあれこれ揃えると高いよねえ」と思いながらググっていたら、大久保で買えばめっちゃ安いという情報を得たのである。このエリアには何軒もインド&イスラム食材屋があって、見比べるのも楽しい。

 

↑歩いてると最初に現れる店。

 

⇧ブレまくりでも、この店の野放途な感じは伝わると思う。

 

 この店の何に注目すべきかというと、とても日本とは思えない店内の荒れ具合である…。鳩とか平気で入り込んでるし。整理整頓という言葉、たぶん店主および店員は見たことも聞いたこともないのであろう…と思われる、異国チックな乱雑さ。でもおもしろい。店員さんはぎょろっとした目つきが本当に怖い。私が店内を長い間あるきまわっていても、何も言わない。けれど、いざ会計すると、にこっと笑って、「これでヨロシですか」と言ったりするのだ。なんだ……いい人なのか…。店に出入りするのはすべて外国人で、彼らと外国語で喋り続けているから、日本語なんて必要なさそうなのだが、ちゃんと「ヨロシですか」などというオモテナシ用語をマスターしている。

 

 何回か通ってわかったのは、この店にかぎらず、みんな店でうろうろする私に、決して声はかけないということである。どれだけ「なにか探してそう」な顔をしていても、どれだけ彼が暇でも、決して声はかけない。おそろしい目つきで、ただなにかを睨んで黙っている。もしくは、仲間と話し込んでいる。だが、こちらが声をかけると、喜んで話し出す(なんだかどこぞの国でも同じだった気が…)。笑顔もどんどん出る。日本語は、日常会話はもちろん接客用語もマスター。…というのが、彼らの基本姿勢らしい。

 

 二軒目はここ。「JANNAT」。

ここはきれいなのである。店主が几帳面なのだろう。一軒目で「本場感」を味わったあと、「でもいくら本場っぽくても私は日本仕様に慣れてるからつらいなあ…」と心が折れかける、しかしこの店が現れてほっとする、というのを、来るたびに繰り返していることに気づいた。

 

↑スパイス、豆類、調味料類がずらりと並んで楽しい。

 

↑発酵コーンの粉、とか…。なにを作るものなのだろう?

 

↑食品屋には必ず電話が売ってる。異国の地での(まあ異国じゃなくても、だけど)まず最初に必要なもの、ということなのだろうか。そしてだいたい数人たむろして、おしゃべりしている。

 

 広い、きれい、明るい。そしてなによりうれしいのが、スパイスを小分けにして売ってくれているところだ。たぶん、通常売ってる300、400、500gくらいの箱入りスパイスを、この店でいちいち開封して小分けにしているのだろうと思う。

 

↑こんなふうに。だいたい普通のスーパーの1/3くらいの値段で買えます。

 

 この店のお兄さんも、仁王のような顔で黙っていた。だが、私がレジに品物を持っていき、「お願いします」というと、にこーっと笑って、「はあい!」と言った。そして、「これ、2つ種類あるけど、これでいい?」と聞いてきた。チリパウダーが2種類あるらしいのだ。見た目はまったく同じ、赤いパウダー状。

「これ、ガーナ産でスーパースーパーホット!ね。いい?」

「え、だめだめだめ、そこまでホットじゃなくていい」

「じゃ、こっちでいいよ、きっと。こっちはインド産ね。あっちは350円だけど、こっちは200円」

「へー。見た目全く同じなのに…」

「僕たちも辛い好き、だけどこれはだめね、もうほーんのちょっと入れても、もうすごいね、辛くて辛くて辛くて」

「そうなんだ…こわい…教えてもらってよかった。ガーナの人は辛いのが好きなのね」

「そう。一度辛いの食べちゃうと、慣れちゃうからね」

「物足りなくなるのね」

「あとね、いつも辛いものに食べてる人はね、辛くないもの食べるとおなか壊しちゃうね」

「えーっ、そうなの!?」

「そうね。壊しちゃう」

 

 基本、人と交際しないのだが、店の人とあとくされない話をするのは大好きなのであった…。クリーニングのおばちゃんとか…。そのおかげでなんだかえらい有益な話が聞けた。

 気が大きくなった私は、「写真撮ってもいいですか?」とまで聞いた。勇気を出して。ふだん絶対そんなこと聞けないのに…。そしたら「いいよーいいよー、もうどんどん撮って!と両手を広げた……。なんか感動。これぞ“心が開けてる”人なのかも。「あ、お兄さんも撮っていい?」とさらに食い込むと、もっと笑顔になって「えーっ、いいよ! どうぞ!」。

 

↑みよ、このフルスイングな笑顔。今書いてても、なんだかほろりとしてしまいそうなほど、ナイスなお兄ちゃんだった。

 ↑これだけ買った。クミン、コリアンダーマスタードシードターメリック、そしてチリパウダー。ムングダール(緑豆)。ムングダールをのぞき、全部で2千円しなかったと思う。家に着いて荷物をあけたらいい香り!

 

 その後、大久保での第二の使命、業務スーパーへ。ラップ放浪の旅を続けていた私は、最終的にここの「プロ好みのラップ」がベスト、だと結論を下したのである。だから買い込まないと。

 切れにくい、密着感あり、100Mで大容量。これを使うと、サランラップとか、すぐ切れるからやってられないです。100均のラップは無添加かもしれないけど、ただのビニールだし…。すべての100円ラップがそうではないのだが。

 しかしこの間仕事したベテラン料理研究家の先生は、「結局サランラップが一番よね」と言っていて、私はなにも答えられなかった…。ここで争うのはよくないと思った…。人の好みっていろいろだなあ、と強く思ったので、ラップを使うたびに先生の顔を思い出す。

 

 ともかく、私はこの「プロ好みのラップ」が好きなので、業務スーパーの前を通りかかったら必ず買わなければいけないのである。家の近所にはない。

 

↑しかし、レジがものすごい列だった…。この人たち全員、レジに並ぶ人らです。果ての果てまで人の頭が見える。ここいらの飲食店従業員が大集合してる感じ。みんな買い物の量がものすごいから。

 

 なんとか買い終えたあと、腰をいたわってすぐ電車に乗るか、西新宿まで歩くか悩むが、歩くのが好きなので無理して歩いてみる。新大久保~西新宿まで、ごみごみした住宅街をちまちま抜けていき、ふと大通りに出ると高層ビルが!というのが結構楽しいのである。

 

 西新宿のタリーズでようやくお茶の時間。午後1時すぎ、昼寝しているサラリーマンがたくさんいて、いろいろ思う。それでなくてもこのへんを歩くと、ほぼ全員会社員で、非会社員でない私はいろいろともの思うのである。

 昔、先輩フリーライターが、「銀座とか歩くと、自分以外は全員カタギに見えて、なんか居心地悪いのよね」と言っていた。自由奔放に全力で自由業を謳歌しているような人だったので、そんなこと思うんだあと意外だった。つまり、「できれば会社員になりたかったな」と思ったりするってことだよねえ…と。私の場合、安定して働ける会社員に対する憧れ、尊敬、僻み妬みそねみ、がないわけではないのだが、こういう勤め人天国のような場所を歩いても、とくに気が滅入るわけではない。ただ、みんな毎日ここに通って働いてるんだなあ……としみじみ思うだけである。帰りはこういうとこで飲むんだろうなあ…とか。私とは全然違う生活送ってるんだなあ。毎日、なにを楽しみに暮らしているのかなあ、とか。

 

 こんなに西新宿について書くなら、高層ビル写真の一枚でも撮るべきだった。後悔。

次回行ったら撮って、アップしよう。