独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

MENU

生き方とか価値観とかいう前に、単なる「慣れ」の問題なのかもしれない

テレビがある生活、ない生活

 テレビを最近つけなくなった。早朝起きてから11時くらいまでと、夕方6時半からだいたい9時くらいまで、必ずNHKがついていたのだが(民法はCMが苦手なので…)、ある平日の7時半頃、ニュースが終わってなにも観たいものがなく、思い切って消してみた。他の投稿でも書いたが、某「睡眠」本に、「夜、テレビがついていないと寂しいと感じるのは、脳が興奮しているから(だから眠れない)」という一文を読んで、「あ、この寂しい気持ちは異常な状態なのだな」と、妙に納得したのだ。

 テレビがついていることが日常になってしまうと、消すのが怖くなる。地上にひとりぼっちのような、とんでもなく寂しいことのように思える。だから、べつに観たい番組でなくても、不快でなければつけていたのだが、勇気を出して……というか、突然、あの一文のおかげで、さっと意識が切り替わって、消してみることにしたのだ。

  

 そしたら、静寂が妙に心地よくて、これは発見だった。以来、ほとんどテレビをつけなくなった。観たい番組は録画しておいて、観るぞ!と態勢を整えて観る。

 

 むかーし、テレビのない生活を数ヶ月したことがあって(理由は忘れた…)、そのときも、そんなこと可能なのだろうか?と思ったが、慣れたらものすごく快適だったことを思い出した。新しい人生を手に入れたぐらいの新鮮さがあり、今後の自分はもう以前とは違うだろう、なんて思ったりもした。

 

 でも、いつのまにかテレビをつける生活に逆戻りし、それがないことは考えられない強い感覚も再度植え付けられた。朝起きて、まずNHKの「おはよう日本」をつける、のが絶対、になってしまった。

 

 人はなにかに慣れる。どんなつらいことにも慣れるといい、それが救いのように感じるときも多いけれど、同時にこの“慣れ”にがんじがらめになってしまうものなのだ。

 

起きてる時間はずーっと誰かと一緒にいるひと、いないひと 

 たとえば、私は20年くらいフリーランスのライターをしていて、その後自分の店を持つための修行として、飲食店のキッチンアルバイトなどをして土日祝日はほぼ働いていた、というような生活しかしたことがなく、会社員になったことがない。長年、外出するなら街や店が空いている平日に、ひとりででかけることが習慣化してしまって、いまでは土日に盛り場(!)に行くことは考えられない。

 そんな生活をずっとしていると、平日、オフィス街でのランチタイム時、同僚たちと連れ立って食事に出るたくさんの人たちを見るたびに驚愕するようになってしまうのだ。つまり、「朝からずっと同じ部屋で、大勢の人間とともに仕事をしていて、なおかつ昼ごはんさえ、同僚と会話しながらとらなければいけない! 地獄のよう!」。

 私からすると、ようやく訪れた休憩時間すら、他人に気を使って、気分のよい会話をしなければならないというのは拷問以外何者でもなく、そんな生活をしていたら精神がおかしくなってしまうのでは?と真剣に思うのだが、考えてみれば多数派はあちらだ。

 週5日、朝の9時から、大勢の人間と机を並べて仕事をし、昼は仲間と連れ立って食事に出て、終わったらまた机に戻って仕事をして、夜になったら今度は飲み会もしくはデートにいき、10時過ぎに帰って、1時間くらいテレビを観て寝支度をして、寝る。6時間後に起きる。

 そんな生活を、ごく当たり前のように送っている人のほうが圧倒的多数なのだ。私は、そこに過剰に驚く自分に驚く。それは私の生活とは、あまりにもかけ離れている。え、それじゃひとりの時間はいつ? いつくつろぐのですか? なにか考えたいというときはいつするの?と尋ねずにはいられない。

 

 そういえば、近所にあるスパイス居酒屋。料理が安くておいしいのでたまに行くのだが、そこには「毎日来る」常連さんがたくさんいる。話をちら聞きすると、どうも昨日もおとといも来てるらしい。毎日何時間も居座るらしい。なにをしているのかというと、ひとりで来て、スマホを観ながら酒を飲みつまみを食べ、ときどき誰かを電話で呼び出したり、店の人や他の常連客と口をきいたりしている。

 酒を飲まない私は、そこでまた驚く。毎日、ここでこんなふうに夜を過ごすのか…。昼は働いてるんだよね? え、週末は仲間とキャンプ! それじゃあ…それじゃあ、自分のこと、なにもできなくない?

  

 でも、会社勤めに慣れた人には、きっとそれは苦痛でもなんでもないのだ、と今更ながら気づいた。だって、それに“慣れている”から。常に周囲に人がいて、会話していることが常態なのだ。

 私がこういう生活に恐怖を感じるのは、私がだいたい一人で過ごしていて、“慣れていない”から、というだけなのだ。もちろん、彼らからみたら、私のような生活は恐怖そのものだろう。「誰とも人付き合いしない毎日って何?……寂しくて死んじゃいそう」。

 「慣れ」が価値観をつくる?

 当然ながらここには決定的な価値観の違いというものがあるのだけど、それよりもなによりも、最大の問題は「慣れ」なのかもしれない。なにかの事情で、私が彼らのような生活を送ることになったら、最初は地獄のようでも、半年も繰り返していたら、当たり前になるのかもしれない。居心地よくなるのかもしれない。

つまり、生き方とか考え方とか価値観とか、そういうものの前に、単なる「慣れ」があるだけのかもしれない。

「慣れ」が、人の価値観を作る。強力に。そしてがんじがらめにする。でも、抜け出すのはきっと思っている以上に簡単なのではないか。

 でももしそうならば、ちょっとエネルギーを出して、慣れから脱出すれば、意外とかんたんに「なりたいけど、なれない、と思っているもの」になれるかもしれない。「絶対無理」と思っていた生活も、とにもかくにも始めて、慣れるまで数週間~数ヶ月がんばれば、案外かんたんに変貌できるのかもしれない。

 そう考えてみたら、なんかちょっと世界が広がった感じがした。自分の可能性は、思ってるよりも多くて、広いのかもしれない、なんて思えてきて。

 

f:id:camecon:20161202160246j:plain

 ⇧新宿小田急の「カフェトロワグロ」にもひとりででかけた。1500円でりんごと根セロリのサラダ、くるみのビネグレットソースで、というサラダと、パンと、飲み物がつく。どんなものがくるのだろう、と思っていたら巨大な美しいサラダが来て、ちょっとうれしかった。すぐ食べ終わっちゃったけど…。

おまけ⇩ 
予算1600〜円のこのカフェ、にぎわっていたけど、客は99%中高年〜初老の女性だった(ただひとり、美意識高そうな30代男性が1400円のモンブランを食べていて光っていた)。高いお金を出してデパートでお茶を楽しむ、という行為は昭和40年代生まれを最後に、絶滅しかかっているのかもなあ。さみしい。