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独楽ログ〜こまログ〜

45歳、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証。

映画「トスカーナの贋作」

倦怠した日常がSF になる

 男は著名なエッセイストで、女はその読者。ふとしたことで会って話をする機会があった。話していたら、いつのまにかふたりの会話は、倦怠期の恋人のようなそれになり、さらには結婚10年以上の夫婦のようなにもなり、それがあまりに自然で、本人たちもその嘘の設定を本気で生きるようになり……。 

 え、本当は夫婦だったの? いや、単なる“夫婦ごっこ”? パラレルワールド?SF映画なの? いや、女の方が狂ってて、男はそれにつきあってあげてるとか? もしかしてその逆か?

 アッバス・キアロスタミの「トスカーナの贋作」はとても不思議な映画だ。ありきたりな中年男女のひとときの逢瀬。本当にありきたりな、倦怠しきった男女の会話が街を練り歩きながら、えんえんと続く。インテリで、理屈っぽくて、情の薄い男。立派な中年で、子供も大きくて、でもそんな現実を受け入れがたく、痛いほどはしゃぐ典型的な“おばさん”の女。

 男と女って、世界中どこでも、いつの時代でも、同じような繰り言を交わし続けるのだなあ、としみじみ思わせる他愛のない会話が、妄想と現実をごっちゃにした世界の上で展開する、というちぐはぐ感がたまらない。景色はトスカーナの街角。

 初対面の男女が、会話をするうちに熟年夫婦のふりをし始める。こんな設定、無理がありすぎるだろうと思うだろう。突拍子もなさすぎて、どうやって物語に入ればいいのか、と思うだろう。

 でも、観ている側はごくごく自然に、ぶつぶつ言い合いながら歩く夫婦(らしきもの)に同化していく。そうそう、結局こういう男って、肝心なときに愛のなさが出ちゃうんだよ、とか。ああ、おばさん、ここでクールに構えていれば、男になめられないのになあ、とか。ふたりの力関係にはらはらするし、このデートがきちんと楽しく終われるのかも心配だし、そして、そもそもこのふたりは結局なんなの?というところで、実にスリリングに時間がすぎる。

あくまでもそっと控えめに、神業

 男の講演会と、それを聞きに来た読者の女という、ごく普通の始まりから、ゆっくりと、異世界にうつっていく、この無理のない変態が実に心地よくて、こんなの誰にでもできる技じゃないなあ、さすがだなあ、とうならされる。すごく新しいことを、“日常の倦怠=中年夫婦の会話”をツールとして語っていくのだ。これ、結構とんでもないことだと思うのだが、ツールが日常的だから、作品からわきたつ凄みは控えめ。これみよがしなところなど微塵もない。すごいなあ。

 控えめで、その実凄まじい、それと同時に、実に美しい作品でもある。オープニングは講演会の、まだ話者の現れない演壇。マイクと壁が写っているだけ。でも、色といい質感といい、惚れ惚れするくらい美しくて、おお、この映画は面白そうだなあと、わくわくした。オープニングで、わくわくできる映画はだいたいおもしろい。…というか、最初のショットで、自分好みの作品なのかどうかわかる。このショットを提示して、「これはこんなシーンが素敵だと思ってる人間が作った物語です。どうです?」と監督から言われているような気がする。賛成できれば、だいたい最後まで楽しめる。

 

 それはさておき、この監督特有の、鮮やかでないのに鮮やかな、としか言えない不思議な色あい、登場人物がカメラの真正面から語りかけてくる、どきっとするアップ、物語と人物をなんども咀嚼させるような、スローなテンポ。なのに、緊張を途切れさせない進行…それらが、しみじみと愛おしい気持ちを起こさせる。ここに現れる物語と人間、風景。その溢れ出てきた愛おしい気持ちは、自分の日常にまで流れ込んできて、乾きはじめていたこちらの毎日も潤す。これぞフィクションの効用。

「友だちのうちはどこ?」というのはこの監督の代表作だが、これも素晴らしい映画だった。小さな村の小学校で、友達がノートを忘れていることに気づく少年。その友達はこのノートで宿題をしないと、明日先生に殴られるのだ。あせった少年は、友達にノートを届けようとするのだが、肝心の家がわからない。あっちで聞き、こっちで尋ね…しかし、いつのまにか日が暮れてしまう。

 まるで紙芝居のような筋書きなのだが、モノクロの画面のなか、さみしい、(おそらく)貧しい小学校、村、ジグザグの丘、そこを走り回る少年が、もうかわいくてたまらない。いったいどうやって友だちのうちを見つけられるのか、ノートは無事届けられるのか。画面から目が離せない。これも、小さな、ごく控えめな物語なのに、観ている側に手に汗握らせてしまう、かつ、なんともいえない気持ちを爆発させる作品だった。神業だった。

 そんなキアロスタミ監督も、2016年の7月に亡くなってしまった。こんな物語を生み出せる人の心のなかには、どんなもので溢れていたのだろう。畏れ多いような気持ちで遠いイランの国を思ってみたりもするが、偶然みつけた今作のインタビューには、神がかったような言葉はひとつもなかった。

 

「全ての台詞は、僕が現実の人生で見聞きしたことに影響を受けている。いつかアメリカにいる姉がイランに来たとき、『あなたの映画を1本も見たことない』と言うものだから、母と妹も家に呼んでみんなで僕の『風が吹くまま』(第56回ベネチア国際映画祭審査員グランプリ受賞)の上映会をしたんだ。見始めて3、4分で母がウトウトし始めて、僕が台所でお茶を片付けて部屋に戻ったときにはみんな寝ていた。それで僕がテレビを消すと、突然みんなが起きて『何で消すんだ!』って叫ぶんだ。

『誰も見てないから消したんだ』っていじけたら、みんな『でもすごくおもしろかったよ』なんて言うんだ。『そんなこと言って寝てただろ! 好きじゃないならそう言えばいいのに!」って怒ったら、みんなで口をそろえて「好きだ、好きだ」と言い張る。頭にきた僕は、もういくら頼まれても見せてやらないと心に決めた。その翌日、姉が突然『あなた昔、子どもと車に乗ってるとき運転しながらウトウトしたでしょ? あなたは子供を愛してなかったって言うの?』って僕を責めてきた。『だってすごく眠かったんだ』と答えたら、『私も昨日すごく眠かったの!』と開き直られたんだ。

このできごとはウィリアムの台詞にそのまま活かされているよ。でもこの話はこうして役に立ったから、やっぱり居眠りしちゃうことは決してそんなにひどいことじゃないよね(笑)」

 実に普通な、俗っぽい一面が垣間見れて、驚いたと同時にすこしほっとした。それにしても、チャーミングな人だ。

 原題の直訳は「認証された贋作」。同インタビュー内ではさらに、「手に届かない本物より、身近にあるコピーを大切にしようと思った」とも言っている。確かに、これを観ると、本物ってなんだっけ? 偽物って悪いのか? 自分にとっての本物はどれなんだろう?と、考えさせられる。それはつまり、自分が当たり前のように信じていた価値観が揺さぶられているということだ。だから、この日常的な作品に、どきどきはらはらするのだろうか。

 

真性のおばさんになったジュリエット・ビノシュ

 主役のジュリエット・ビノシュは、同インタビューによると、「彼女が、僕の映画に出ると言い張った」のだとか。カンヌ映画祭で主演女優賞を受賞したのだが、それも納得のすごい演技を披露している。ありふれた中年女性そのものの、活力と熟れた色気、図々しいけどかわいらしい、愚かな繰り言を言い募りながら、突如真実を言い当てたりもする……愛らしさと醜さのシーソーゲームのような主人公を実に自然に演じている。

 若い頃からおばさんぽかったけど、本当のおばさんになったら魅力爆発、が私が思うジュリエット像。もちろん、「ポン・ヌフの恋人」の頃のような神々しい可愛さはもうない。目も小さく萎んで、肌もたるみ、シワも多い。けれど、それがとても自然で、堂々としていて、静かな確信に満ちていて、なんともいい顔なのだ。自分のしてきたことを愛して、糧にしている、そういう顔をしている。

 まあでも、実際に会ったら、びっくりするほどきれいなんだろうなあ。