独楽ログ〜こまログ〜

45歳、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証。

映画「トランボ」

50年代アメリカで共産主義を貫く社会派映画…ではなくて

 

 信念を貫いた売れっ子脚本家の、見事な生き様----という言い方が、この映画を端的に表すのにふさわしいのだろうが、「トランボ」はそういう「清く正しく」「立派な」物語とは少し違う。実際、前半15分間、すでにハリウッドの売れっ子脚本家であり、共産主義を自認するトランボが、周囲の監督、俳優、配給会社のお偉方なんかに疎まれ、文句を言われつつ、活動している様なんかは、「あれー、私、ちょっと映画の選択間違えたかなあ」と正直…思ってしまった。立派な人が、体を張って立派な主義を貫き通すっていう社会派映画なのか、と。でも、途中から変わった。

 いや、これはそういう映画であることは間違いない。別に突然話ががらりと変わるわけではなく、最後まで彼は屈することなく、周囲と戦い続ける。そこに誤りはない。だけど、この作品は、“正しさ”を追求すること以上に、べらぼうにおもしろいのだった。本当に、これは目が覚めるほど、おもしろい映画だ。

 

 前半は、50年代アメリカを吹き荒れたレッドパージ赤狩り)のど真ん中で闘っていたトランボの厳しい日々が描かれる。心が折れそうな友を言葉たくみに----さすが名脚本家、本当に言葉たくみでまるで詐欺師のようだ----励まして運動にとどまらせたり、迫害してくるおばさんコラムニストと丁々発止やりあったり。ジョン・ウェインだって、まんまとやりこめてしまう。公聴会ではまた言葉たくみに、聴衆を煙に巻く。トランボが、ただ正しいだけでなく、めっちゃ頭が回る人なのだということを知りつつ……だが、結局、刑務所収監。なにも悪いことをしていない人が、集団の圧力によってさんざん酷い目に遭う、王道でストレスフルな展開。いかにトランボが頭よくても、結局権力には勝てないのか、とつらい気持ちになる。

 

結局権力と集団には勝てなかった。で?

 が、しかし、このあとがすごかった。勝負はここからだったのだ。

 ようやく刑務所からは出れたものの、社会の敵扱いされ、もちろんハリウッドからも干されている。妻ひとり子供3人をどうやって養えばいいのか? トランボはB級映画専門の製作会社に、仕事が欲しいと頼みにいく。「あんたは高すぎて雇えないよ」という社長(ジョン・グッドマンが怪演!)に、「あの映画の脚本にはいくら払ったんだ? あれと同じでいい」と、自らダンピングして仕事を得る。3日で書く、と言い切って帰り、実際書き上げてきて、それが傑作だった。社長が脚本を叩きつけて「ちくしょう、こいについ金を払え! なんだこいつは! 天才だ! よし、書け!どんどん書け! 全部買う!」

 いやもう、トランボも身をひくこの激賞の爽快なことといったら! 芸は身を助く。才能があるって、なんてかっこいいんだろう。これは勝手な想像だけど、長い間刑務所にいて、彼のなかの創作魂がもうぱんぱんに膨れていたのだろう。すごい勢いでタイプしてたもんな。で、以降、彼はB級作品を書いて書いて書きまくる。注文が追いつかないし、同じく赤仲間で仕事にあぶれた脚本家たちもたくさんいたから、彼らも巻き込んで、書きまくる。もちろん、名前は偽名。トランボが書いているということは絶対にばれてはいけないから、発送だの電話受付だの等マネジメント業務は家族がやる。妻も娘も息子も総動員、フル稼働だ。風呂で書くのが好きだったらしいトランボは、浴槽に台を渡してテーブルにして、タイプライターと酒、タバコを装備して、昼も夜も書きまくる。眠たくなったらアンフェタミンを酒でぶちこむ。「くだらない作品を生活のために書くなんて冗談じゃない」という病気持ちの仲間も説得して、書きまくる。その脚本の手直しだってばんばんする。

 

 そうなのだ、ここがすごいのだ。志を曲げたくない。それを貫いたからこそ、彼は超一流の座から引きずり降ろされ、刑務所に行った。だが、その後、彼は志は変えずに、戦い方を変えたのだ。共産主義者の最大の変節は、保身のために仲間の名を非米活動委員会に売る(証言する)ことだ。実際、エドワード・G・ロビンソンなんかも最後の最後までがんばってたのに、結局仕事を干されるのが怖くて、仲間を売ってしまう。その罪悪感があまりにつらくて、逆ギレして「俺は悪くない」とヒステリックに言い募るしかない。……つらい。「あんたは名前を変えれば仕事ができる。でも俺は顔で仕事してるんだ。隠れることはできないんだ」と必死に言い訳というか逆ギレしている姿は本当に痛々しかった。まあ確かにそうかもな、と少し思ったりもして…。

 

勝ち方にはいろいろあるらしい

 閑話休題

 とにかく、トランボは、志は曲げず、ただ、新しい戦い方を作り上げた。「こんなくだらない映画のための脚本は書きたくない」という、そんな類の志は簡単に捨てた。もともと持ってなかったのかも。でも、仲間を売ったり、自分が間違っていたと認めたり、かつての敵に頭を下げたりはしなかった。ただ、めちゃくちゃおもしろい脚本を書いて、自動的にハリウッドが自分を欲せざるを得ないような状況を、作り上げたのだ。

 最初からそこまで考えていたわけではないだろう。最初はただ、一家を露頭に迷わせないために、がむしゃらにある仕事をやっただけだろう。でも、どんなに予算がなくても、社長の要求がくだらなくても、おそらく彼は最大限楽しんで物語を書いたのだろう。だから、よくある展開のように、腐ったりしなかった。生活のためにやりたくないことをやりすぎて魂をすり減らしたりしなかった。だからこそ、そんな暴力的なスケジュールでの脚本書きのなかでも、ときどきとびきりの傑作ができてしまい、「おまえの名前で持ち込んでくれ」と友人に渡したりすることができたのだろう。ちなみにこの脚本は「ローマの休日」。

 

集まってくる人たちだって、どうしたって魅力的

 トランボの強靭な体力(酒とタバコとアンフェタミンをあんなにがんがんやって、心身ともに元気で働き続けてるって………)と精神力で生み出された脚本は、だんだんハリウッドの心ある----いい映画が作りたいという心----人々を、引き寄せていく。周囲の圧力も意に介さず、すべてひとりで決めてトランボに仕事を依頼しに来たカーク・ダグラスの男前なこと! 別のトランボ自身が出るドキュメンタリー映画で、おじいちゃんになった彼は「自分がしたことで誇れる数少ないことは、トランボに脚本を頼んだことだね」と言っていた。「この脚本を映画にしたいんだ。300ページある。だが1行もおもしろくない。なんとかしてくれ」と、ばさっと投げる。しびれたなあ。

 同じく突然家にあらわれて脚本を依頼し、出来上るまでここで待つ、という、明らかにおかしな人、オットー・プレミンジャー監督。激しいオーストリア訛りの英語で「まだかね? まだできないのかね? ここはおもしろくないから書き直しなさい、さあ」などと言い続けて、さすがのトランボもたじたじだったが、この映画はポール・ニューマンの「栄光への脱出」だった。これも結局名作だった。オットー・プレミンジャーは、革新的なことをしたことで有名な人らしく、だからこそ、異端者扱いだったトランボに脚本を依頼できたのだろう。しかし、この押しかけ居候シーンは何度見ても笑える。

 あの爽快なB級映画会社の社長だって、トランボを離さなかった。非米活動委員会が「トランボを使うな」と圧力をかけにきたのを、なんとバット1本で追い返してしまう。それがあんまり怖かったから、もう二度と脅されなかった。この凄まじい社長の暴れっぷりも、もう一度見たいシーンのひとつだ。彼には志もくそもない。あんなにおもしろい脚本を超絶スピードで書いてくるトランボを使わないなんて、考えられないというだけだった。たぶん。そこが爽快。

 そうやってだんだんハリウッド全体がどうしてもトランボが欲しい!という状況になっていく。この過程のエキサイティングなことといったら。結局、体力、気力、そして才能と、「持てる人」による「すごい話」なのねえ、ということになってもおかしくないのだが、そうはならず、観てる人だれもが一緒に達成感や爽快感を味わえるのがこの作品のすごいところではないだろうか。それで見終わって、みんなが思うのだ。「そうか、戦い方はひとつじゃないんだ」と。「よし、新しい攻め方を考えてみるか」と。

 

志をどこに持つのか?という問題

 ちなみに私は、やっつけ仕事のなかでの「心から書きたいと思って温めていた」作品「黒い牡牛」について話し合っているシーンも好きです。B級映画会社の副社長に「まあ、どうせたいした作品じゃない」などとさらりと言われたとき。「あ、失礼」と横目で付け加えられて、トランボは「いやいいんだ、たいした作品じゃない」とひょうひょうと同意。このすっとぼけた雰囲気は、トランボというか、俳優のブライアン・クランストン自身の持ち味だと思うのだが、どうなんでしょうかね? トランボもそんな人だったのかしら。でもこの生き方を見てると、そうなのかもな、とも思うが。

 ともあれ、こんなふうに俳優の魅力と役の魅力が渾然一体となっているのも、この映画の素晴らしいところ。この人だから、ここまで演じられたのだろうなあと思う。そして、「たいした作品」であることよりも「くそおもしろい作品」がいいだろ? というエンターテイナー魂が、この映画には充満していて、それがこの爽快感の理由なのだとも思う。