独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

MENU

スペイン旅行記 その9〜資料を集めよう 後編

遠い時代の、遠い国々の物語が蘇る

 中野京子さんの美術エッセイ「怖い絵」シリーズは、いわゆる“名画”の知られざるエピソードを紹介してベストセラーになった。創作過程や、時代背景、作者の事情、画題の理由…謎解きではない(そういうものもときにはあるが)。知られざる、というのは隠されていたわけではなくて、あまりにも時代と場所が隔たってしまった人間には知りようのないという意味だ。実際のところは、書いてあることのほとんどは「当時の常識」。彼女の説明により、私たちは当時の人たちと近い感覚で、絵を観ることができるのだ。教科書で見る「名画」ではなくて、世間や宮廷を騒がせている「風物詩」のひとつとして。

 

↑のちのちのお楽しみのため、数冊未読のものも残してます。もちろん、本当は文庫じゃなくてハードカバーで読むことをお勧めします。絵がちっちゃくてしょうがない…。

 

 しかも中野さんの視点は、その博識さと、現代に生まれたという利点も合わさって、より広く、高いところにある。だから当時の一般人よりもさらにおもしろく絵を観ることができる、とも言える。私たちはそのおこぼれにあずかっている。

 例えば、同じ天才でも、人格、財産、友人、家族、名声、あげくに長寿…と持てるものすべてをさらりと持てたルーベンスと、人生の後半になって突然、ひたすらに不運に見舞われ続けたレンブラントとの比較。例えば、ラファエロの、「尖ったところのない、万人向けのわかりやすい美しさ」を生んだ、その人生----「人柄もよく人気があり、出世を望んで出世をし、人生を愉しんだ」。そして、死後、かつての名声が「円満で中庸で深みがない」と酷評になるその変遷と、「果たしてそうなのか?」と提示される疑念。

 美貌、健康、安定した権力と財産と、全てに恵まれたフランス王、ルイ15世がどのように人生に退屈し、そしていかにして「こよなく愛される王」から、ただ色惚けした「こよなく若い女を愛する王」に成り果てていったのか。人の不幸はいろいろあるが、どれだけたくさんのものを持っていても、それを使う場がない、優れた能力を発揮する必要がない不幸などというものもあるのだ。彼女が描くと、ルイ15世の人生は、その怠惰さよりも、悲哀に焦点が当てられる。

 

 いつの時代も、いろいろな人間が、いろいろに生きていて、それはとても不公平で、しかし誰もが----王様でも貧民でも----そこでただ必死にあがくしかないのだなあ、ということが、しみじみと感じられる。素人には一見退屈な、王侯貴族の肖像画からだって、中野氏は人間と、その人間が暮らす世界の物語を引き出すことができる。例えば、名匠ベラスケスの順風満帆な出世ぶりと、過労死と言われたその多忙さ、様々な人生の断片から、果たして彼は画家としてどれほど自分の人生に満足していたのか?と探ってみたり。

 

 まあ、とにかくこの人の本は、どれもこれも滅法おもしろいのだ。膨大な西欧史の知識と深い愛情、そして主観的だと言われることを全く恐れない、爽快な断定。これらが熱いエネルギーになってぐつぐつと溢れている。

 実は、ベストセラーになった当時、数章読んで「うわあ、すごいおもしろい」と思いつつも、その先へは至らなかったのだけど(好奇心不足…)、2015年にパリに行く前、なにか予習を…と思って手に取ったのが、彼女の「はじめてのルーブル」だった。

 

プラド美術館熱も、この人のせいであった

 ここにあったヒエロニムス・ボスの章がやたら印象的で、その彼の絵が山ほどあるのはルーブルではなく、マドリードプラド美術館であるということで、いつかプラド美術館、行きたい!となったのだった。

 プラド美術館訪問の予習として、一番ふさわしいのは「ハプスブルク家12の物語」だと、個人的に思っている。プラド美術館の基礎を作ったのは、ハプスブルク家出身のフェリペ2世と4世だからだ。ハプスブルク家誕生~隆盛~終焉が名画とともに語られているのだが、なんといってもティツィアーノの描いたフェリペ2世の肖像画「軍服姿のフェリペ皇太子」の章が、いい。彼女は堀田善衞の文をひいて、

 

 「スペインの人間たちの発散する、えもいわれぬある種の暗さ、陰気さ、しかもこの暗さと陰気さが、男たちにあって一種異様な性的魅力となってあらわれる」

 

 と、この絵の魅力をずばり言い当てている。実際はスペイン人の血は1/8しか入ってないらしいのだが、誰よりもスペイン人だった、と氏は書く。

 現代の目から見ても、この人は相当に魅力的だ。残忍極まりない異端審問をしまくり、他国を制圧しまくってスペインを一大帝国にのしあげ、同時に類まれな審美眼持ち主でもあり、スペインにお宝を集めた。ヒエロニムス・ボスとティツィアーノという、まるで作風の違うふたりの巨匠の作品をこよなく愛した。自らを「カトリックの守護神」と名乗りつつ、「異端では?」と疑われていたボスの絵は、思いっきり愛した。さらに、本人はこの自分の肖像画を嫌って、画家として彼を評価しつつも、二度とティツィアーノに自分を描かせなかったという。なぜ? こんなにいい男に描いてもらってるのに…。 まあとにかく、エピソードのひとつひとつが、猛烈におもしろい。中野氏の彼への愛情もびしびしと感じる。

 さらに、ベラスケスのあの名画「ラス・メニーナス」にも迫り、薄い本なのに驚くほど濃い内容だ。

 この本に加えて、「怖い絵 死と乙女篇」のゴヤマドリッド、 一八〇八年年五月三日」と、「名画の謎~ギリシャ神話篇」の「運命の女神たち」も読みのがせない。ゴヤの人生を知ってから観る彼の絵は、あまりにも激烈。

「名画の謎~旧約・新約聖書篇」の、ベラスケスの「キリスト磔刑」、ボス「七つの大罪と四終」ぜひ。この「名画の謎~旧約・新約聖書篇」も、一冊まるごと相当おもしろいです。キリスト教にどっぷり浸からずに生きてきた人間には、退屈にしか見えない宗教画が、俄然おもしろくなること必至。

 

 事前知識はいっさいなく、ただ作品と向き合い、そのときに受ける感情を大切にする…というのも、絵を観るのに大切なことだとは思うのだが、彼女の本を読んでから観る楽しさがあまりに強すぎて、もうこの「まっさらに観る」楽しみは完全に諦めた。仕方がない。なにかを選んだらなにかを捨てなければ。

 

かなりの経済効果と、希望効果あり

 それにしても、うわあ、行きたいなあ、でも、とてもじゃないが行ける気がしない。夢のまた夢か…と思ったのがパリ旅行直前の、2015年秋。結局2017年初めに実現したのだから、物事はやる気でなんとかなるものなのかもなあ、なんて思ったりする。

 その2015年秋から1年以上かけて、仕事中の昼休みに彼女の本をしらみつぶしに読んだ。なにを読んでもおもしろいから、昼休みが楽しみだった。読めば読むほど、これらの絵を観るために、ヨーロッパを一通り回らなければいけない、という気になる。なんというか、いてもたってもいられない気持ち。大した経済効果である。次はイタリアか? ロンドンか? いや、ロシアのエルミタージュ美術館かなあ…。単純な未来の旅の予想図が、毎日を楽しくしてくれる。ほんと、ありがとうございます。