独楽ログ〜こまログ〜

45歳、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証。

40代のお金の使い方

 VIRONでお昼を食べた。

 

 パンはもちろん、料理もデザートも、いつも確実においしいVIRON。そしていつも確実にお高いVIRON。この日のランチは大山鶏のモロッコ風サラダ、¥1800。白金豚(だったかなあ……)のロースト、ドフィノア添え、¥2000とさんざん悩んで、サラダも食べたかったので鶏にした。

 

 たっぷりの葉野菜、惜しみなく添えられた色どり野菜。これがプロの火入れか!とうなるジューシーな肉の食べごたえ。量もたっぷり。ああ、うまいなあ、と思いつつ、いつもここで思うのは、この値段を出さないと、このレベルのものは食べられないのだろうか、という疑問である。だって、お値打ちのはずのランチで、¥1800である。スープも、ドリンクも、もちろんデザートもついてないのだ。お茶、飲みたいです。この素敵な空間で余韻を楽しみながら。でもお茶に¥800出すなら、タリーズでも行こうか、と思ってしまう。ほんとは野菜サラダもしくはマリネ¥800に豚ロースと¥2000、お茶¥800に、なんならデザートのプロフィットロール¥800(だったかな?)だって頼みたい。でもすると、合計五千円くらいになってしまう。以前は“たまにだから”とかうそぶいてオーダーしてたけど、もう無職の私にはできない。

 以前、ここのシェフの牛尾さんのロングインタビューを読んで、VIRONがいかによい素材を使っているか、この値段はむしろ安いくらいなのだ、ということを知って以来、「高すぎるよね」と思わないようにしていたのだが、やっぱり安くはないよね。というか、私には高い。そして必ず、このレベルの味を東京で出すには、この値段を出さなきゃいけないのか? どうしても? という、最初の疑問が沸いてきて止められないのだ。

 

 …と書いてて、思い出した。昨年、池袋のイタリアンレストラン

「オステリア・ピノ・ジョーヴァネ」でランチを食べたとき、「たとえ東京のど真ん中でも、あの値段を出さなくても相当な満足は得られる」と確信したのだ。残念ながら写真は撮らなかった。しかし味と量、サービス、すべてかなり満足度が高く、池袋もめったに来ない場所だが、この店のために来てもいいかもしれない、とすら思った。

http://www.pino-giovane.com/wp-content/uploads/lunch_img_01.jpg

2400円で

 スープと前菜3点の盛り合わせ

 パスタ 

 メイン(たとえば山形三元豚の網焼き 香草風味 サラダ添え)

 自家製パン

 ドルチェ(フランボワーズのティラミス)

 珈琲か紅茶

  が出てきて、それぞれかなりの量なのである。この写真は店のHPからお借りしたのだが、この写真にはメインがない。つまり、2400円コースなら(1800円もある)このほかにさらに肉料理がつくのだ…。

そう、でもたしかここも旦那さんがシェフで奥さんが給仕をしていた。つまり個人店なわけで、だからこういうことができるのだろう。

いつか書いたように、大きな店と小さな店は違うのだ。

camecon.hatenablog.com

 

 ふたりでやっているだけあって(ディナータイムは違うのかも?)、それは小さな小さな店で、VIRONのようにたくさんのお客さんにまぎれこむようなくつろぎかたはできないのだが、まあ、そういうところに値段の差が出るのでしょう。とくに東京駅のVIRONの広さと開放感、そして椅子からカウンターから、すべてしみじみと「いい素材」を感じる内装などは、ちょっとやそっとの資金では調達できないだろうし。

 

 ちなみに池袋でこんなふうに結論づけたあと、半年ぶりにでかけたVIRONで、サラダの葉っぱがけっこうくたびれていて、それでかなり興が醒めたので、最近は前ほどいかなくなった。言えば取り替えてくれたのだろうが…。お店のためにも言ってあげるべきだったような気もするが…。

 

散財とわたくし

 さらに難しいのは、お金というものが相対的なものだということである。「正当な価格」と「私にとっての正当な価格」がけっこう違うのだ…。残念ながら。若いときは素材やら作りやらが素晴らしくて、それが「正当な価格」だと思われるものなら、私の経済状況はいっさい関係なく購入していた。なんか、それが善だと思っていた。「買うべきである」と思っていた。そして、けっこうのちのち苦しい思いをした。当然ながら…。

 世の中には、それだけの値段を払ってようやく、それを作った人が生活を賄えるもの、というのがいっぱいある。通常の5倍の手間をかけて、通常の半分しか収穫できないトマトだの、その技術を習得するのに何十年もかかる銅鍋だの、木材を何十年も乾燥させてようやく使える無垢材家具だの…。例えば新築マンションは、その価格の半分は広告費、なんて話を聞くと、意地でも新築は買わないぞ、なんて思うけれど、前者のように、その値段にふさわしい理由がついていれば、どんなに高くても納得しなければならない。

 しかし、ではそれを私が必ず買うのかというと違うんだよなあ、ということに、私はだいぶ大人になってから気づいた。まあ言ってみれば分不相応ということか。そのものがどれだけ素晴らしいものでも、それはイコール「では買いましょう」にはならないのだ。そこにやっと気づいた。遅ればせながら。

 子供の頃から「みんな平等です」と言われ続けて育ったせいなのか、80年代のバブルが青春時代だったせいか、「素敵だけど今の私にはふさわしくない」という謙虚な感覚を、ほとんどもったことがなかったのだ。いいものは、すべからく買わなければならないと思っていた。

 でもいつのまにか、「素敵! 欲しい!」と閃いた数秒後、「でも今の私には“良すぎる”ものじゃないか?」という考えがわくようになった。「これはまさしく素晴らしい品物だけど、私には必要はないのでは?」と。

 私の経済の歴史を書くと

~31歳まで 散財しまくる

31~36歳 散財に疲れ、反動で「なにもいらない、なにも買わない」と言い出す

36~40歳 やっぱり欲しいものは欲しいしな、と思い始める。買わないときが長く続いてフラストレーションがたまり、たまにどかっと無駄なものを買って後悔する、と繰り返す。

40~46歳(現在) 使い勝手、試用期間、持つことの効果、今の経済状況などを考え合わせ、「価値あり」と厳選したものだけ買う

 

 という流れで、今ようやくお金と穏やかにつきあっている。「価値あり」のものというのは、つまり「絶対後悔しないもの」である。長く生きていろんなことが予測できるようになったので、「この先後悔するかしないか」もだいたいわかるようになったというわけだ。昔は稼いでは使う、の繰り返しで、友達もすごくたくさんいたし、いろいろ遊んでいたし、たぶん傍からすれば「あの頃は活躍してたのにね」などと思われていそうだが、でも今はあの頃の「あれが欲しい。でもお金が足りない」「あれを買ってしまった。支払いどうしよう」という苦悩が消えたので、とても幸せだ。

  謙虚でありつつも、決して「どうせ貧乏ですからね」と卑屈にはならない。とびきりおいしいオリーブオイルを知っているけれど、でも今の私には750mlのオイルに4500円も払えないから、半額以下のものを使う。でもそれを、仕方なく使っているのではなく、喜んで使っている、そのへんの生活態度がいいんじゃないかと、最近は思っている。