独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

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日本人が磨くもの

書くことがなくなった

 痛めていた腰もほとんど治り、パワーヨガもランニングも毎日できるようになった。夜も、そこそこ眠れるようになった。

 だが、気が滅入る。

 なんだろう? ブログも、ある日突然、「なにも書くことがないなあ」と思ってしまい、毎日「書くこと」を頭で探してはいるのだが、なにも見つからず日々が過ぎている。

 

 景気づけに、と散歩に出かけたり甘いものを食べたり、神社で写真を撮ったりしつつも、「書くこと」までに至らない。最近は、「なぜあんなに書くことがあったのだろう?」というところにまでいってしまっている。「そんなにおもしろおかしい生活してたっけか?」と考えてみると、別段今とたいして変わっているわけでもない。

 

 あー、まいったな、家にいても外にいても、何も変わらない、なら外に出るとお金使うから家にいたほうがいいや、となり、あげく、うちの景観のなかで大事な位置をしめていた大銀杏の大木(借景)がなんと切られ初めていて、毎日チェーンソーの音を聞かされて、それが銀杏の悲鳴のようにも自分の悲鳴のようにも聞こえて、いよいよたまらなくなってきた。

 

 それで、気晴らしの原点に帰ることにした。

 掃除。

 決して好きではないが、物理的にはもちろん、精神的にもある種の効果は実感している掃除、とくに拭き掃除。雑巾がけ。これでもやるか、と心を決めた。いつも自己流でなんとなくやっていたのだが、今回は調べてみた。

 

 すると、

●雑巾がけの前に掃除機をかけてはいけない。ホコリが舞い上げられて、拭き掃除をし終えたあとくらいに降りてくる。

 

●ホウロウバケツとぬれ雑巾5枚、乾いた雑巾5枚を用意して、どんどん拭いてはバケツにほうりこむ。そのまま水を入れてガス火にかけて煮沸する、のが簡単でおすすめ

 

●雑巾がけの姿勢は筋肉トレーニングとして素晴らしいものである

 

 などの知識を得た。まず形から入るので、さっそく野田琺瑯でホウロウたらいを見つけて、かわいいので買おうとするが、よく考えたらうちの掃除用に使っているボウルはステンレス製で、火にかけられるなあ…全然、買う必要ないなあ…と思い、泣く泣く諦めた。あのたらいを買ったら、毎日でも雑巾がけする気になれそうな気がするのだが…。

 

 そう、掃除の達人ブログを読みあさっていたら、「知り合いは毎朝起きたらまず、家中の雑巾がけをするという。慣れたら面倒でないし、なにしろ素足でフローリングを歩くときの気持ちよさといったら」云々と書いてあって、「毎日雑巾がけ! 起きたらすぐに!」と結構なショックを受けたのだ。これができたらさぞ気持ちいいだろうなあ…しかし…毎日…無理…だよなあ。

 

 とにかく、今日はやろう、ということで準備。

 バケツがわりのボウル、乾いた雑巾、濡れ雑巾。それから激落ちくん(これを使うのは間違ってるのかもしれないが……)。汚い雑巾も平気で触れるように、あと手を洗いすぎて荒れるので、綿手袋とゴム手袋を二重でする。

 綿手袋は、かのアトピーの名医、美馬皮膚科で、「ゴム手袋ぉ? そんなんしたって荒れるに決まってるでしょ。綿の手袋して、綿!」と怒られて。確かに手荒れは減ったような気がする。密着系のゴム手袋は、このメーカーはすぐに切れるので全然おすすめしないです。

 

 濡らした激落ちくんで汚れを取り、濡れ雑巾でふき、さらに乾いた雑巾で水気を取る、という順番。洗剤も用意したけど、使わなかった。「雑巾がけで洗剤を使うのは邪道」というようなことを昨日のネット情報で得たのと、なんとなく使わないほうが気持ちがいいと私も思うからである。

 『ガイアの夜明け』のバター不足の闇を見ながら!

 お供は、録画しておいた「ガイアの夜明け」。バター不足問題の闇に迫る第二弾で、前回、「バターが不足すればするほど儲かるわけですわ」的なことを発言して世間を驚かせたホクレンに続き、今回も「たとえ農協に生乳を卸さなくても、農協にお金を収めていただきます」というわけのわからない新制度を発表して、酪農家をびっくりさせていた。ここに出てきていた酪農家さんは、年に120万円くらい収める計算になるそうで、もちろんみんな怒っていたが、本当に……どうなってるんだろう、世間っていうか、社会っていうか、政府っていうか、こんなことが通用するなんて?? 世の中の制度を丸呑みしちゃいけないんだな、としみじみ思った。言ったもん勝ち、の理不尽な制度がきっと山ほどある。ちなみに、この不思議な制度を発表した大会、「ガイア」だけは取材お断り、と会場に入れてもらえていなかった。これも、参加者の酪農家さんが「そんなのおかしいだろう、報道の自由ってもんがあるじゃないの。こんなのトランプと同じじゃないか」と憤っていた。

 

 …と、これを見ながら掃除していたので、怒ったり、手を止めて画面に食い入っていたために時間がかかったが、ガイアが終わるのと同時に終わった。いつもそうなのだ、なぜか。ガイアの放送時間がちょうどうちのフローリング部分の雑巾がけとほぼ同じなのである。正確に言うと、もうひとつ板張りの部屋があるのだが、そこまで一度にやる気力がなく…。

 ⇧きれいになったのかなってないのか、よくわからない写真なのだけれど…。

 

 今日はヨガはやめて雑巾がけにしよう、と決めただけあって、ものすごい発汗量だった。ヨガの1・5倍くらい運動している気がする。運動だと思ってヨガのかわりにすれば、毎日の雑巾がけも夢じゃないのかもしれない。シャワーを浴びて自分も掃除し、きれいになった床を素足で歩く。快感!

 

雑巾がけって、他国の人はしなくない?

 しかし床にはいつくばって雑巾がけをする、って、日本人以外でするのかな?というのが、以前から思っていたことであった。雑巾がけ=お寺の小僧が修行がわりにする、というイメージがあるから、中国人はするのだろうか。

 でも雑巾がけをするとつくづく思うのは、やっぱり床に顔近づけて、手でこするというのが、一番きれいになる方法なんだよね、ということである。多くの国ではモップを使うけれど、最強はやっぱり雑巾がけなんだと思う。

 

 それについて考えるといつも思い浮かぶのは、パンの巨匠、志賀勝栄さんの言葉だ。

 著書「パンの世界」で、海外へパン修行に出かけたときのことを書いている。

 

「(海外のパン作りで大きな驚きはなく)むしろ技術以外の部分で驚かされた。階級社会のイギリスでは、パン職人たちがまったく掃除をしないのです。だから厨房が汚い。それは掃除をする職業の人の仕事であって、パン職人の仕事はパンを作ることなのだと。フランスでも似たようなことを感じました。こうした感覚は日本のパン職人にはまったくない。ギャップに驚きました」

 

 ああ、そんな話聞いたことあるなあ、と思いつつ読み進めると、次に出てきたのは、

 

 掃除は自分を磨くためにやるものだ、と日本人は考えます。

 

 という言葉だった。私はものすごくびっくりした。えっ、そうなんだ!? 知りませんでした! 掃除は「必ずしなければけないもの」という認識はあったのだけど、「自分を磨くためにやるもの」だとは思ったことがなかった。しかし、そうか、日本人は掃除を修行の一環としてやるものなあ…。いろいろ思いながら、しみじみとこの言葉について考えた。床を磨けば自分も磨かれる、と思いながらやれば、このつらい掃除が少し楽しくなるような気がした。これは激しく、大きく価値観を変える言葉だ。

 

 掃除は好きではないし、かなり苦痛なのだが、「自分のした後始末は自分でする」という考え方は好きなので、掃除は必ず自分でしなければいけないと思っている。それは日本人だからなのだろうか? あるとき、ものすごく几帳面な友人が「メイドって…いいよね…」としみじみ言っていて、「え? なんで? 他人が家に入ってくるのも嫌だし、自分の汚したものは自分で片付けたいから、別にいらないな」と答えてすごく不思議がられたけれど、彼女も日本人なのだから、私固有の考え方なのだろうか。

 しかし、志賀さんも「掃除を全力でやる若者でないと、教えても育たない。パンを作るバックボーンができないので、パン職人としても大きくならないのだと思う」と言っていたし、そもそも掃除をしないと作業が完了しないような感じがある。

 

誕生日にはお掃除を

 そういえば、さみしい誕生日を過ごしていたある年、ひとりぼっちであまりにもさみしくて、やることないあまり、洗面所の、ふだんあまりしないところの掃除をした。それで、「これからは誕生日は、誰に祝ってもらったとか、何をもらったとかで喜ぶのではなく、やりたくない場所の掃除をする日にしよう」と決めた。これは新しい年が小さな達成感とともに始まるので、なかなかいいアイディアだった。「祝ってもらえない。惨めだ」としくしく泣いているよりは、「うわーきれいになった! あたしだってやればできる!」などと思っているほうが百倍建設的な気がする。

 

 雑巾がけには、なにか単なる作業以上のものがあるのでは?と思ってググってみたら、「人生に悩んだら日本史に聞こう」(ひすいこうたろう、白駒妃登美著)の引用をされているブログをみつけた。

blog.goo.ne.jp

  欧米では仕事は労働や罰のようなものとしてとらえているが、日本人はまるきり違う、という話から、次につづく。

 

日本人にとって、古来、労働とは“神事”であり、感謝と喜びを表すものでした。もう一歩踏み込んで考えてみると、日本人にとって、生活そのものが神事だったのではないかと思うのです。

 古くから日本人は歳神様、お盆には祖先の御霊を家にお迎えする伝統を大切にしてきました。生活の場である“家”は、日本人にとって、単なる建造物ではなく、神様をお迎えする特別な場所でもあったわけです。だから、日本人は、家では靴をぬぎます。そして、床に這いつくばって雑巾がけをしていました。欧米では、床をモップで拭くだけです。掃除の仕方ひとつみても、日本人にとって生活そのものが神事であったということが、端的にあらわれています。

(中略) 日本人は、働くことや生活を通して、常に神様と一体になろうとしていたのではないか。だから、日常生活のひとつひとつを雑にせず、心をこめていた。

 これこそが、日本人がずっとずっとずっと、大事にしてきた生き方であり、人生の楽しみ方だと思います。

 

  なるほどねえ…。神については、いまだはっきりとわからないため、なるほど…以外に感想が出てこないのだが、でも「掃除は掃除人がするもの」と思っている社会よりはいい気がする。欧米だけでなく、カースト制度のあるインドなんかもそうらしい。掃除は掃除人がすればいい。だからみんな平気で町にゴミを捨てる。結果めっちゃ汚い風景が現れる…。どう考えても日本人のほうがいいよねえ…?

 しかし、日本人のこの考え方に反対する人も多いようだ。海外でもよく「日本の学校では、なぜ生徒たちに掃除をさせるのか。学校は勉強をするための場所で、掃除をする場所じゃない」と言われたりするという。

 

 片付けコンサルタント近藤麻理恵さんが 2015年にアメリカの「TIME」誌が選ぶ「最も影響力のある100人」に選ばれて世間を驚かせたけれど、「片付けや掃除が単なる厭わしい労働ではなく、健やかなメンタルを育てるものである」という考え方は、あちらの人々には相当ショッキングだったのではないだろうか。こんな考え方があるのだ、としっかり伝われば、子供に掃除をさせる意味がわかってもらえると思うのだが。

 

床を磨いて一皮むけた 

 汗だくになって床をきれいにしたあと、郵便局に出かけた。歩きながらふと、考え方が間違っていたのでは?と気づいた。最近「書きたいようなおもしろいこと」が起きていない、のではなく、単に「出来事をおもしろがる力」が減退しているだけではないのか、と。だって、こまめにブログ書いてたときとたいして変わらない毎日送っているのだもの…。起きていることにワクワクする力が減ってるだけなのか、と気づいたら、よし、帰ってブログ書こう、と思った。

 

おまけ

 

お気に入りの掃除用具

プラスマイナスゼロ のコードレスクリーナー。

www.plusminuszero.jp

 

結局、吸引力だとかなんだとかの前に、「ホウキのように使えるかどうか」こそが、私にとっての掃除機の最大ポイントなのだと気づき、さんざん検討を重ねて選んだのがこれだった。

●さっと取り出せてさっと使えるコードレス&スティックタイプ。

●見た目がかわいい。

●他のコードレスに比べて吸引力あり(と多くの人がレビューしていた)。

●パーツを取り外すとハンディタイプにもなる。

●ブラシも付属している。

●実勢価格2万円以下

 

 というのがメリット。1年半使っているが、かなり満足している。使っている途中でパワー切れしたこともないし、ゴミ捨ても簡単。

ただ、オプションのブラシは便利だけど毛が軟弱で、すぐに使い古しの歯ブラシのように広がってしまい、これはとても残念。

 そして持ち手のところ(電源スイッチのすぐ下)がついこないだ、割れてしまった。掃除中だけでなく、スタンドにセットするときや、パーツの取り外し時など、あらゆるときにこの一点に力をかけていたからだと思われる。接着剤で直したら、意外に元通りになったので驚き。

 ちなみにこの分野でのトップランナー、マキタは、夫が会社で使っていて、本体が重すぎて取り回しが不愉快、だとかで大反対されてやめました。

 

網戸掃除グッズ

 

網戸はずさず洗える!お掃除ローラー。こんなもの、落ちるのかな?と半信半疑で買ったのだけど、落ちました。

網戸をひとこすりする→真っ黒になる→洗剤を溶かした水に浸し、付属のスティックでなぞる→瞬時にきれいになる→また網戸をひとこすりする

を、何度か繰り返していると、そのうちスティックが汚れなくなるので、それが掃除終了の合図、というわけです。

この白い妙な道具が、汚れ落とし&余分な水分切り、としてものすごく便利。よくまあ、こんなもの考えるなあ、と感心しながらいつも掃除している。

⇧きれいになった! …って、わからないよね…。

 

でも、ここで紹介しようと改めてアマゾンを見たら、これ、2800円もしてた。高すぎる。なのでとくにおすすめではないです。網戸掃除に深く悩んでいたら、一度使ってみてもいいかもね、というくらいです。