独楽ログ〜こまログ〜

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ソール・ライター展と内部志向型人間

せっかく渋谷にいるからソール・ライター展

 まだ渋谷にいる。 

 美馬皮膚科→VIRON のあと、観たいけど、渋谷だから見逃してしまいそう…と思っていた写真家ソール・ライター展に行こうとひらめいた。

 

www.bunkamura.co.jp

 

東急文化村だからここから徒歩5分もかからない。しかし迷ってしまった。文化村に来るのは、もしかして10年近くぶりかも…。なにもかも忘れてしまったのだ。併設の映画館、ル・シネマはどこにあるんだっけ? ドゥマゴカフェってのがあったよね? ギャラリーは…??とおのぼりさんのようにまごましながら歩いて、ようやくドゥマゴだのギャラリーは地下にあり、長いエスカレーターを降りていくのだ、ということを思い出した。うわー、懐かしい。

さきほど、お金の使い方について若き自分を振り返っていたせいで、この文化村に仕事でよく来てた20~30代のことなども生々しく思い出す。もう、とんでもなく昔のことのようだ。うーん。自分、けっこう長く生きてるなあ。

 

 ソールライターはニューヨークの写真家だそうである。生活費を稼ぐために1950年代の「VOGUE」のファッション写真を撮り華々しく活躍するも、でも本当はそんなものに興味がないから続ける意欲もなく、すぐに表舞台から姿を消し、イーストヴィレッジのアパートにこもり、その周辺の出来事だけを撮り続けて、ほぼ無名のまま死んでいこうとした83歳の矢先、またスポットがあたって、こんなふうに再評価されている…という。2012年には「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」が制作されたりして、ちょっとしたブームが続いているようなのである。ちなみに彼は2013年に亡くなった。

 

 代表作はこのチケットにある、雨にけぶったガラス越しに撮った写真。

この写真のように、彼が撮るニューヨークの日常は「普通が特別になる」という逆転現象を色鮮やかに証明している。

 この写真を見たとき、「おおお!」と思ってかけつけてみた。ニューヨーク好きにはたまらない、写真の数々に圧倒される。うーん、素晴らしい。

 …なのだが、展覧会をじっくり見ているうちに、「いや…でもまあ、忘れられちゃったのもしかたないかな」とふと思ってしまった。傑作もたくさんあるけど、そうでもないものも多いというか、彼が「自分の家の周りだけ」をひたすら撮っていた、その閉塞感、単調さに飽きがきてしまうというか…。ああ、これはまた数年したら忘れられちゃうかもしれないな、と思った。

 

残らなくたっていいじゃない

  この先、うまく言うのが難しいのだが。

 大事なのは、こんなふうに思うことが、即否定的&悲劇的な意味を持たないということである。10数年ぶりの場所に来たせいで昔の自分を思い出したせいもあると思うが、もし文化村に来ていた頃に、この写真を見てこんな感想を持ったら、それはすなわち、悲劇、だったと思う。いきなり興が冷めていたと思う。結局、忘れられてしまう作家や作品。超一流じゃなかったということ…。とことん本物じゃないということ…。所詮はその程度のものだったということ…哀しい…等々。

 しかし今は、「たとえ偽物でもいいじゃないか」などと思う。後世に残るものが作れたら素晴らしいけど、作れなくてもいいんじゃないか、とごく普通に思う。それよりも、彼が(すみません、今、この人がのちに忘れられるという前提のもとに話してますが、もちろんこれは私の妄想&独断的前提です)、いわゆるサクセスの誘いを全部シャットアウトし、“自分を売り込む”ことも一切拒否し、ただただ、イーストヴィレッジにこもり、好きなもの、好きな女だけを撮って、老いて死んでいったということ、それが私には大事なことのように思える。

 なぜ彼はそんなふうに自分のすることに確信を持てたのだろう。彼に限らず芸術家はみんなそうかもしれないけれど、とにかく内側からわきでる確信、自信、それをとことん信じることができるから、こんなふうに生きることができる。いつも人の意見や生き方に、ぐらぐらと土台を揺さぶられ続けている私にしてみると、本当に不思議だ。どういう構造なのだろう?

 リースマンの「内部志向型」人間と「他人志向型」人間

 米の社会学者、D.リースマンによると人間は3つの社会的性格にわけられるのだそうな。伝統志向型、他人志向型、そして内部志向型である。以下、引用はこちら。

kotobank.jp

 

 

内部思考型は、社会の伝統や慣習にも、また世間の一般的風潮や他人の意向にも強く拘束されることなく、自分の内部の信念や良心に従い、それを基準として自分の行動の方向を決めていくような性格類型をいう。

 

 ということらしいのだが、この3つの性格が、時代によってそれぞれ優勢なときと劣勢なときがある、というのがおもしろい。

 

(内部思考型は)歴史的には、ルネサンス宗教改革を経た西洋の近代社会において(とくに上層中産階級に)現れてくる社会的性格であり、前近代社会における伝統思考型と現代大衆社会における他人思考型との中間に位置づけられる。

 それはいわば剛直で個性的な性格であり、資本主義発展期の仕事中心の社会には適しているが、資本主義のさらなる発展・高度化によって消費や人間関係に重点が移行した社会(大衆社会)では、むしろ他人志向型のほうが優勢になる。

 

  ということで、今の世では生きにくい種類の人間らしい。

 対して他人志向型は、

周囲の他人やマスメディアに登場する同時代人を行動の基準または指針とするのが他人志向型であり、このタイプは自分の信念を貫くことよりも、他人とうまくやっていくこと、他人から受け入れられ認められることを求めるので、他人(同時代人)の意向に絶えず気を配り、それを的確にキャッチし、それに自分を合わせていこうとする。この意味で他人志向型の人間の心理機構はレーダーに例えられる。

 (中略)20世紀アメリカの大都市の上層中産階級にもっとも早く現れ、その後、大衆社会状況の進展につれて広く一般化した。つまり、このタイプは資本主義の高度化によって生産や仕事そのものよりも、うしろ消費や人間関係に重点が移ってくるような社会において支配的となる性格類型であり、またそのような社会にもっともよく適合した性格類型といえる。

 

  ちなみに伝統志向型とは、上の2つの類型に歴史的に先立つものとされて、

 自分が所属している社会の伝統的な行動様式(慣習・儀礼・エチケットなど)に忠実に従うことを自分の行動の基準とする性格類型をいう。社会変化の速度が緩やかで、家族や血縁集団の依存度が高く、価値体系がかなり固定的であるような社会(たとえば西洋の中世封建社会)では、伝統思考型がもっとも普通の性格類型であり、また社会適応にとっても有利である。

  であるけれども、資本主義が発展して、近代的な市民社会が成立してくると、うまく適応できず、これにかわって自分の内部や信念をよりどころにして自主的に行動する内部志向型が優勢になってくる、のだそうな。

 

 なるほど…。私の性格も、時代の賜物なのか。つまり「この時代、よくいる人」なわけだ…。とほほ。資本主義が成熟しきった今、同じように他人志向型の人間があふれているから、生き方指南を求める人が街中あふれかえっているのである。そしてソール・ライターをはじめ、いわゆる芸術家は完全に内部志向型人間。

 こんなふうに人間を3つにわけられて言い切られると、「そんな簡単じゃないや」と抗いたくもなるが、でもまあ、かなり的を得ている気もするので、つい話を聞いてしまう。

 内部志向型に対する最後の一言が秀逸だ。

 内部志向型は、常識的な価値判断においては、望ましい性格として理想化されがちであるが、反面、その剛直さや個性の強さが、ときに独善主義や偏狭さ、他者への感受性の欠如や不寛容、所有と獲得への執着などとして現れるという点も見落とすべきではない。

 

 

  とまあ、たしかにその通りで、ソール・ライターなも後年は生活費にも事欠いて、友人に頼り切っていたらしいから、さぞ迷惑な人だったろう。スティーブ・ジョブスピカソも、シャレにならないくらい性格悪かったらしいしなあ…。全てにバランスの取れた人格など、そうめったにあるものじゃないということなのか。

 不完全、それもまたよし

 そう、そうなのだ。

だから、つまり、全てに優れてなくてもいいのである。優れてたらいいけれども、優れてなくてもいいのである。

 芸術作品も、忘れられたっていいのである。超一流の、最上のものを目指して誰もがものを作っているのだろう、だけど、なかなかそれは達成できない。そしたらそれでいいのではないか。「これは完璧とは程遠い作品だ」「あの人は本物じゃないから」と切り捨ててしまうのではなく、それはそれで楽しむ。不完全な作品、不出来な人生を愛でる、面白がる。人間も同じ。「ああ、この人、ここが最悪」と思っても、「まあいいや」と放置してつきあう。正しい(とされている方向)に矯正しようとしない。そのまま、let it goだ。

 不完全、それもまたよし。これができると、毎日が変わると思う。だって世の中は不完全な人とものだらけだからだ。

  …まあ、とはいえ、発展途上の私は、まだできる日とできない日があるのだけれども。だからこうして文字にしてみて、自分に言い聞かせているのである。

 

 

おまけ

成熟しきった資本主義社会において、内部型志向を貫く(と思う)山田孝之。「東京都北区赤羽」「山田孝之のカンヌ映画祭」で、その恥のさらしっぷりがあまりにもかっこよくて、夢中です。誰の意見も聞かない。自分をとことん信じている。どんなに裏切られても。そしてそれを恥じない。なにがここまで深く強く、彼を確信させるのか。謎すぎて目が離せない。

 よく考えてみれば映画「電車男」のときから、「この人いい」とは思っていたのだが…。

映画の監督はだめだめだったが、それ以外は素晴らしい、それを体現しているCMのトラックが爆音で通り過ぎた。