独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

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こなログ マルゲリータ風トースト

7月1日

23℃

いよいよ本格的な梅雨。予報は毎日雨。雨の音、気持ちいい…などとも言えなくなってきた。

マルゲリータ風トースト

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ベランダのバジルで。スープはコーンポタージュ

 今年初のコーンポタージュ(前回もそうだった)、いつもは蒸したコーンをミキサーでペーストにして牛乳で割る、味付け塩、なのだけれど、今回は玉ねぎを炒めてスープストックも入れてみた。おいしかったけど、どうなのか。どっちでもいいのかな。玉ねぎ、多過ぎるとなんだか違うものになっちゃうしなあ。なにしろめんどくさいしなあ。

 どっちでもおいしいから、まあいいのですが。

 

『鷗外の子供たち』森類 新潮文庫

 森鷗外とその家族の話に取り憑かれている。知れば知るほどおもしろい。類は末っ子で、自称”不肖の子”。勉強も全然できなくて中学を途中でやめたほどだ。頭の病気かもしれないと検査までしたが、なにもなかった。子供たちは全員、「神のごとく」の父親についてエッセイを書いていて、みんなそれぞれ素敵な文章を書くのだが、類のそれは一番露悪的らしい。子供の頃の女の子のような美少年ぶりと、ひ弱さ、勉強のできなさ、でもすべていちいち客観的に観察して記憶している感じなど、とても頭が悪いようには思えず、興味がつきない。書き出しから、「家族について書いたら、姉たちから呼び出されて非難され、削除を強要され、出版社の人にも、おまえなんか偉くない、お父さんが偉いだけだ」と罵られ(大意)」…などとねちねち書いている。文章も全体的に装飾過剰でねちねちしている。卑屈なのだ。でもなんだか強い。

 ここの子供たちはみんな鷗外に溺愛されたからか、もしくはお母さん(しげ)の性格的遺伝なのか(たぶん両方)、すごくふてぶてしく、それこそ自己肯定感の塊である。(あ、杏奴さんのことはまだ深く読んでないのでわかりませんが…)たとえいじけていても、堂々といじけている。姉たち、とくに茉莉に至っては反省も自己嫌悪も一度もしたことないような感じだ。彼女は日常生活がまるきりだめで、「共同生活にむかない」かなり問題ある人だったけれど、最終的的には作家としてなんとか名声を得た。デビューは54歳。その綱渡りぶりも本当にはらはらする。「うわ…すごいなこの人。人としてありなのか? でもいいのか、作家だから。うん」となんとか納得する綱渡り。お母さんのしげも、この評価があればあんなに「悪妻」としてけなされなかったかもしれない。なにしろ「美術品のような」美人なので、「激しく生きた人」ということで映画にもなっただろう。でも現実は茉莉のようにはなれなかった。小説は何本か書いたけれど大成功したとは言えず、生きがいにもならなかったようだ。

 それにしても類。鷗外の子供で「取り分の暗算ができないからトランプをやらない」ほど勉強ができない、というのはさぞつらかっただろうなあ。朝井まかて氏が彼のことを『類』という小説にしていて、今、図書館で予約中。ものすごくおもしろい気がする。(以上、敬称略)

 

【追記 7月8日】

 家族の思い出を綴っただけだと思っていたこの本は、鷗外の死後の翌年の関東大震災〜太平洋戦争をくぐりぬけて、「一度も働いたことのない」著者が、なんとか生き抜こうとうする物語でもあった。終わりかたなど、映画のようだ。素晴らしい。問題だらけで愛憎あいまみえる母と3人の子(ときには異母兄も加えて4人)は、母が世間から憎まれていたせいもあって、ぎゅっとひとつになって外の世界と戦う。4人をひとつにしていたのは、やっぱり鷗外だ。関東大震災のときはパニックになり、庭の鷗外の石像の足元にすがりつく。大地震なのに。杏奴に問題が起きたときは、鷗外の像(写真か?)に向かってひたすら親子で祈る。そして、あまり生活力があるとはいえない子供たちは、彼のことを書いて才能を発揮し、稼ぐのである。どの子たちにも「自分がいちばん愛された」と思わせるほど均等に目をかけ、書かずにいられないほどの思い出を与える。「ほとんど誰にも好かれない」妻のことも、いろいろありながらもきちんと愛していたと思う。「父だけが母をかばっていた」のである。そしてその奥さんは、猛烈に夫を愛していた。

 あとに残されたものたち」の安楽ではない日々を、ふわりとユーモアを交えて綴る彼の文章は、兄姉のなかで一番鷗外に似ているそうだ。この境遇、この家族づきあい、この生き方。あまりにも独特で、そして非現代的。