独楽ログ〜こまログ〜

45歳、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証。

日本人が磨くもの

書くことがなくなった

 痛めていた腰もほとんど治り、パワーヨガもランニングも毎日できるようになった。夜も、そこそこ眠れるようになった。

 だが、気が滅入る。

 なんだろう? ブログも、ある日突然、「なにも書くことがないなあ」と思ってしまい、毎日「書くこと」を頭で探してはいるのだが、なにも見つからず日々が過ぎている。

 

 景気づけに、と散歩に出かけたり甘いものを食べたり、神社で写真を撮ったりしつつも、「書くこと」までに至らない。最近は、「なぜあんなに書くことがあったのだろう?」というところにまでいってしまっている。「そんなにおもしろおかしい生活してたっけか?」と考えてみると、別段今とたいして変わっているわけでもない。

 

 あー、まいったな、家にいても外にいても、何も変わらない、なら外に出るとお金使うから家にいたほうがいいや、となり、あげく、うちの景観のなかで大事な位置をしめていた大銀杏の大木(借景)がなんと切られ初めていて、毎日チェーンソーの音を聞かされて、それが銀杏の悲鳴のようにも自分の悲鳴のようにも聞こえて、いよいよたまらなくなってきた。

 

 それで、気晴らしの原点に帰ることにした。

 掃除。

 決して好きではないが、物理的にはもちろん、精神的にもある種の効果は実感している掃除、とくに拭き掃除。雑巾がけ。これでもやるか、と心を決めた。いつも自己流でなんとなくやっていたのだが、今回は調べてみた。

 

 すると、

●雑巾がけの前に掃除機をかけてはいけない。ホコリが舞い上げられて、拭き掃除をし終えたあとくらいに降りてくる。

 

●ホウロウバケツとぬれ雑巾5枚、乾いた雑巾5枚を用意して、どんどん拭いてはバケツにほうりこむ。そのまま水を入れてガス火にかけて煮沸する、のが簡単でおすすめ

 

●雑巾がけの姿勢は筋肉トレーニングとして素晴らしいものである

 

 などの知識を得た。まず形から入るので、さっそく野田琺瑯でホウロウたらいを見つけて、かわいいので買おうとするが、よく考えたらうちの掃除用に使っているボウルはステンレス製で、火にかけられるなあ…全然、買う必要ないなあ…と思い、泣く泣く諦めた。あのたらいを買ったら、毎日でも雑巾がけする気になれそうな気がするのだが…。

 

 そう、掃除の達人ブログを読みあさっていたら、「知り合いは毎朝起きたらまず、家中の雑巾がけをするという。慣れたら面倒でないし、なにしろ素足でフローリングを歩くときの気持ちよさといったら」云々と書いてあって、「毎日雑巾がけ! 起きたらすぐに!」と結構なショックを受けたのだ。これができたらさぞ気持ちいいだろうなあ…しかし…毎日…無理…だよなあ。

 

 とにかく、今日はやろう、ということで準備。

 バケツがわりのボウル、乾いた雑巾、濡れ雑巾。それから激落ちくん(これを使うのは間違ってるのかもしれないが……)。汚い雑巾も平気で触れるように、あと手を洗いすぎて荒れるので、綿手袋とゴム手袋を二重でする。

 綿手袋は、かのアトピーの名医、美馬皮膚科で、「ゴム手袋ぉ? そんなんしたって荒れるに決まってるでしょ。綿の手袋して、綿!」と怒られて。確かに手荒れは減ったような気がする。密着系のゴム手袋は、このメーカーはすぐに切れるので全然おすすめしないです。

 

 濡らした激落ちくんで汚れを取り、濡れ雑巾でふき、さらに乾いた雑巾で水気を取る、という順番。洗剤も用意したけど、使わなかった。「雑巾がけで洗剤を使うのは邪道」というようなことを昨日のネット情報で得たのと、なんとなく使わないほうが気持ちがいいと私も思うからである。

 『ガイアの夜明け』のバター不足の闇を見ながら!

 お供は、録画しておいた「ガイアの夜明け」。バター不足問題の闇に迫る第二弾で、前回、「バターが不足すればするほど儲かるわけですわ」的なことを発言して世間を驚かせたホクレンに続き、今回も「たとえ農協に生乳を卸さなくても、農協にお金を収めていただきます」というわけのわからない新制度を発表して、酪農家をびっくりさせていた。ここに出てきていた酪農家さんは、年に120万円くらい収める計算になるそうで、もちろんみんな怒っていたが、本当に……どうなってるんだろう、世間っていうか、社会っていうか、政府っていうか、こんなことが通用するなんて?? 世の中の制度を丸呑みしちゃいけないんだな、としみじみ思った。言ったもん勝ち、の理不尽な制度がきっと山ほどある。ちなみに、この不思議な制度を発表した大会、「ガイア」だけは取材お断り、と会場に入れてもらえていなかった。これも、参加者の酪農家さんが「そんなのおかしいだろう、報道の自由ってもんがあるじゃないの。こんなのトランプと同じじゃないか」と憤っていた。

 

 …と、これを見ながら掃除していたので、怒ったり、手を止めて画面に食い入っていたために時間がかかったが、ガイアが終わるのと同時に終わった。いつもそうなのだ、なぜか。ガイアの放送時間がちょうどうちのフローリング部分の雑巾がけとほぼ同じなのである。正確に言うと、もうひとつ板張りの部屋があるのだが、そこまで一度にやる気力がなく…。

 ⇧きれいになったのかなってないのか、よくわからない写真なのだけれど…。

 

 今日はヨガはやめて雑巾がけにしよう、と決めただけあって、ものすごい発汗量だった。ヨガの1・5倍くらい運動している気がする。運動だと思ってヨガのかわりにすれば、毎日の雑巾がけも夢じゃないのかもしれない。シャワーを浴びて自分も掃除し、きれいになった床を素足で歩く。快感!

 

雑巾がけって、他国の人はしなくない?

 しかし床にはいつくばって雑巾がけをする、って、日本人以外でするのかな?というのが、以前から思っていたことであった。雑巾がけ=お寺の小僧が修行がわりにする、というイメージがあるから、中国人はするのだろうか。

 でも雑巾がけをするとつくづく思うのは、やっぱり床に顔近づけて、手でこするというのが、一番きれいになる方法なんだよね、ということである。多くの国ではモップを使うけれど、最強はやっぱり雑巾がけなんだと思う。

 

 それについて考えるといつも思い浮かぶのは、パンの巨匠、志賀勝栄さんの言葉だ。

 著書「パンの世界」で、海外へパン修行に出かけたときのことを書いている。

 

「(海外のパン作りで大きな驚きはなく)むしろ技術以外の部分で驚かされた。階級社会のイギリスでは、パン職人たちがまったく掃除をしないのです。だから厨房が汚い。それは掃除をする職業の人の仕事であって、パン職人の仕事はパンを作ることなのだと。フランスでも似たようなことを感じました。こうした感覚は日本のパン職人にはまったくない。ギャップに驚きました」

 

 ああ、そんな話聞いたことあるなあ、と思いつつ読み進めると、次に出てきたのは、

 

 掃除は自分を磨くためにやるものだ、と日本人は考えます。

 

 という言葉だった。私はものすごくびっくりした。えっ、そうなんだ!? 知りませんでした! 掃除は「必ずしなければけないもの」という認識はあったのだけど、「自分を磨くためにやるもの」だとは思ったことがなかった。しかし、そうか、日本人は掃除を修行の一環としてやるものなあ…。いろいろ思いながら、しみじみとこの言葉について考えた。床を磨けば自分も磨かれる、と思いながらやれば、このつらい掃除が少し楽しくなるような気がした。これは激しく、大きく価値観を変える言葉だ。

 

 掃除は好きではないし、かなり苦痛なのだが、「自分のした後始末は自分でする」という考え方は好きなので、掃除は必ず自分でしなければいけないと思っている。それは日本人だからなのだろうか? あるとき、ものすごく几帳面な友人が「メイドって…いいよね…」としみじみ言っていて、「え? なんで? 他人が家に入ってくるのも嫌だし、自分の汚したものは自分で片付けたいから、別にいらないな」と答えてすごく不思議がられたけれど、彼女も日本人なのだから、私固有の考え方なのだろうか。

 しかし、志賀さんも「掃除を全力でやる若者でないと、教えても育たない。パンを作るバックボーンができないので、パン職人としても大きくならないのだと思う」と言っていたし、そもそも掃除をしないと作業が完了しないような感じがある。

 

誕生日にはお掃除を

 そういえば、さみしい誕生日を過ごしていたある年、ひとりぼっちであまりにもさみしくて、やることないあまり、洗面所の、ふだんあまりしないところの掃除をした。それで、「これからは誕生日は、誰に祝ってもらったとか、何をもらったとかで喜ぶのではなく、やりたくない場所の掃除をする日にしよう」と決めた。これは新しい年が小さな達成感とともに始まるので、なかなかいいアイディアだった。「祝ってもらえない。惨めだ」としくしく泣いているよりは、「うわーきれいになった! あたしだってやればできる!」などと思っているほうが百倍建設的な気がする。

 

 雑巾がけには、なにか単なる作業以上のものがあるのでは?と思ってググってみたら、「人生に悩んだら日本史に聞こう」(ひすいこうたろう、白駒妃登美著)の引用をされているブログをみつけた。

blog.goo.ne.jp

  欧米では仕事は労働や罰のようなものとしてとらえているが、日本人はまるきり違う、という話から、次につづく。

 

日本人にとって、古来、労働とは“神事”であり、感謝と喜びを表すものでした。もう一歩踏み込んで考えてみると、日本人にとって、生活そのものが神事だったのではないかと思うのです。

 古くから日本人は歳神様、お盆には祖先の御霊を家にお迎えする伝統を大切にしてきました。生活の場である“家”は、日本人にとって、単なる建造物ではなく、神様をお迎えする特別な場所でもあったわけです。だから、日本人は、家では靴をぬぎます。そして、床に這いつくばって雑巾がけをしていました。欧米では、床をモップで拭くだけです。掃除の仕方ひとつみても、日本人にとって生活そのものが神事であったということが、端的にあらわれています。

(中略) 日本人は、働くことや生活を通して、常に神様と一体になろうとしていたのではないか。だから、日常生活のひとつひとつを雑にせず、心をこめていた。

 これこそが、日本人がずっとずっとずっと、大事にしてきた生き方であり、人生の楽しみ方だと思います。

 

  なるほどねえ…。神については、いまだはっきりとわからないため、なるほど…以外に感想が出てこないのだが、でも「掃除は掃除人がするもの」と思っている社会よりはいい気がする。欧米だけでなく、カースト制度のあるインドなんかもそうらしい。掃除は掃除人がすればいい。だからみんな平気で町にゴミを捨てる。結果めっちゃ汚い風景が現れる…。どう考えても日本人のほうがいいよねえ…?

 しかし、日本人のこの考え方に反対する人も多いようだ。海外でもよく「日本の学校では、なぜ生徒たちに掃除をさせるのか。学校は勉強をするための場所で、掃除をする場所じゃない」と言われたりするという。

 

 片付けコンサルタント近藤麻理恵さんが 2015年にアメリカの「TIME」誌が選ぶ「最も影響力のある100人」に選ばれて世間を驚かせたけれど、「片付けや掃除が単なる厭わしい労働ではなく、健やかなメンタルを育てるものである」という考え方は、あちらの人々には相当ショッキングだったのではないだろうか。こんな考え方があるのだ、としっかり伝われば、子供に掃除をさせる意味がわかってもらえると思うのだが。

 

床を磨いて一皮むけた 

 汗だくになって床をきれいにしたあと、郵便局に出かけた。歩きながらふと、考え方が間違っていたのでは?と気づいた。最近「書きたいようなおもしろいこと」が起きていない、のではなく、単に「出来事をおもしろがる力」が減退しているだけではないのか、と。だって、こまめにブログ書いてたときとたいして変わらない毎日送っているのだもの…。起きていることにワクワクする力が減ってるだけなのか、と気づいたら、よし、帰ってブログ書こう、と思った。

 

おまけ

 

お気に入りの掃除用具

プラスマイナスゼロ のコードレスクリーナー。

www.plusminuszero.jp

 

結局、吸引力だとかなんだとかの前に、「ホウキのように使えるかどうか」こそが、私にとっての掃除機の最大ポイントなのだと気づき、さんざん検討を重ねて選んだのがこれだった。

●さっと取り出せてさっと使えるコードレス&スティックタイプ。

●見た目がかわいい。

●他のコードレスに比べて吸引力あり(と多くの人がレビューしていた)。

●パーツを取り外すとハンディタイプにもなる。

●ブラシも付属している。

●実勢価格2万円以下

 

 というのがメリット。1年半使っているが、かなり満足している。使っている途中でパワー切れしたこともないし、ゴミ捨ても簡単。

ただ、オプションのブラシは便利だけど毛が軟弱で、すぐに使い古しの歯ブラシのように広がってしまい、これはとても残念。

 そして持ち手のところ(電源スイッチのすぐ下)がついこないだ、割れてしまった。掃除中だけでなく、スタンドにセットするときや、パーツの取り外し時など、あらゆるときにこの一点に力をかけていたからだと思われる。接着剤で直したら、意外に元通りになったので驚き。

 ちなみにこの分野でのトップランナー、マキタは、夫が会社で使っていて、本体が重すぎて取り回しが不愉快、だとかで大反対されてやめました。

 

網戸掃除グッズ

 

網戸はずさず洗える!お掃除ローラー。こんなもの、落ちるのかな?と半信半疑で買ったのだけど、落ちました。

網戸をひとこすりする→真っ黒になる→洗剤を溶かした水に浸し、付属のスティックでなぞる→瞬時にきれいになる→また網戸をひとこすりする

を、何度か繰り返していると、そのうちスティックが汚れなくなるので、それが掃除終了の合図、というわけです。

この白い妙な道具が、汚れ落とし&余分な水分切り、としてものすごく便利。よくまあ、こんなもの考えるなあ、と感心しながらいつも掃除している。

⇧きれいになった! …って、わからないよね…。

 

でも、ここで紹介しようと改めてアマゾンを見たら、これ、2800円もしてた。高すぎる。なのでとくにおすすめではないです。網戸掃除に深く悩んでいたら、一度使ってみてもいいかもね、というくらいです。 

 

ソール・ライター展と内部志向型人間

せっかく渋谷にいるからソール・ライター展

 まだ渋谷にいる。 

 美馬皮膚科→VIRON のあと、観たいけど、渋谷だから見逃してしまいそう…と思っていた写真家ソール・ライター展に行こうとひらめいた。

 

www.bunkamura.co.jp

 

東急文化村だからここから徒歩5分もかからない。しかし迷ってしまった。文化村に来るのは、もしかして10年近くぶりかも…。なにもかも忘れてしまったのだ。併設の映画館、ル・シネマはどこにあるんだっけ? ドゥマゴカフェってのがあったよね? ギャラリーは…??とおのぼりさんのようにまごましながら歩いて、ようやくドゥマゴだのギャラリーは地下にあり、長いエスカレーターを降りていくのだ、ということを思い出した。うわー、懐かしい。

さきほど、お金の使い方について若き自分を振り返っていたせいで、この文化村に仕事でよく来てた20~30代のことなども生々しく思い出す。もう、とんでもなく昔のことのようだ。うーん。自分、けっこう長く生きてるなあ。

 

 ソールライターはニューヨークの写真家だそうである。生活費を稼ぐために1950年代の「VOGUE」のファッション写真を撮り華々しく活躍するも、でも本当はそんなものに興味がないから続ける意欲もなく、すぐに表舞台から姿を消し、イーストヴィレッジのアパートにこもり、その周辺の出来事だけを撮り続けて、ほぼ無名のまま死んでいこうとした83歳の矢先、またスポットがあたって、こんなふうに再評価されている…という。2012年には「写真家ソール・ライター 急がない人生で見つけた13のこと」が制作されたりして、ちょっとしたブームが続いているようなのである。ちなみに彼は2013年に亡くなった。

 

 代表作はこのチケットにある、雨にけぶったガラス越しに撮った写真。

この写真のように、彼が撮るニューヨークの日常は「普通が特別になる」という逆転現象を色鮮やかに証明している。

 この写真を見たとき、「おおお!」と思ってかけつけてみた。ニューヨーク好きにはたまらない、写真の数々に圧倒される。うーん、素晴らしい。

 …なのだが、展覧会をじっくり見ているうちに、「いや…でもまあ、忘れられちゃったのもしかたないかな」とふと思ってしまった。傑作もたくさんあるけど、そうでもないものも多いというか、彼が「自分の家の周りだけ」をひたすら撮っていた、その閉塞感、単調さに飽きがきてしまうというか…。ああ、これはまた数年したら忘れられちゃうかもしれないな、と思った。

 

残らなくたっていいじゃない

  この先、うまく言うのが難しいのだが。

 大事なのは、こんなふうに思うことが、即否定的&悲劇的な意味を持たないということである。10数年ぶりの場所に来たせいで昔の自分を思い出したせいもあると思うが、もし文化村に来ていた頃に、この写真を見てこんな感想を持ったら、それはすなわち、悲劇、だったと思う。いきなり興が冷めていたと思う。結局、忘れられてしまう作家や作品。超一流じゃなかったということ…。とことん本物じゃないということ…。所詮はその程度のものだったということ…哀しい…等々。

 しかし今は、「たとえ偽物でもいいじゃないか」などと思う。後世に残るものが作れたら素晴らしいけど、作れなくてもいいんじゃないか、とごく普通に思う。それよりも、彼が(すみません、今、この人がのちに忘れられるという前提のもとに話してますが、もちろんこれは私の妄想&独断的前提です)、いわゆるサクセスの誘いを全部シャットアウトし、“自分を売り込む”ことも一切拒否し、ただただ、イーストヴィレッジにこもり、好きなもの、好きな女だけを撮って、老いて死んでいったということ、それが私には大事なことのように思える。

 なぜ彼はそんなふうに自分のすることに確信を持てたのだろう。彼に限らず芸術家はみんなそうかもしれないけれど、とにかく内側からわきでる確信、自信、それをとことん信じることができるから、こんなふうに生きることができる。いつも人の意見や生き方に、ぐらぐらと土台を揺さぶられ続けている私にしてみると、本当に不思議だ。どういう構造なのだろう?

 リースマンの「内部志向型」人間と「他人志向型」人間

 米の社会学者、D.リースマンによると人間は3つの社会的性格にわけられるのだそうな。伝統志向型、他人志向型、そして内部志向型である。以下、引用はこちら。

kotobank.jp

 

 

内部思考型は、社会の伝統や慣習にも、また世間の一般的風潮や他人の意向にも強く拘束されることなく、自分の内部の信念や良心に従い、それを基準として自分の行動の方向を決めていくような性格類型をいう。

 

 ということらしいのだが、この3つの性格が、時代によってそれぞれ優勢なときと劣勢なときがある、というのがおもしろい。

 

(内部思考型は)歴史的には、ルネサンス宗教改革を経た西洋の近代社会において(とくに上層中産階級に)現れてくる社会的性格であり、前近代社会における伝統思考型と現代大衆社会における他人思考型との中間に位置づけられる。

 それはいわば剛直で個性的な性格であり、資本主義発展期の仕事中心の社会には適しているが、資本主義のさらなる発展・高度化によって消費や人間関係に重点が移行した社会(大衆社会)では、むしろ他人志向型のほうが優勢になる。

 

  ということで、今の世では生きにくい種類の人間らしい。

 対して他人志向型は、

周囲の他人やマスメディアに登場する同時代人を行動の基準または指針とするのが他人志向型であり、このタイプは自分の信念を貫くことよりも、他人とうまくやっていくこと、他人から受け入れられ認められることを求めるので、他人(同時代人)の意向に絶えず気を配り、それを的確にキャッチし、それに自分を合わせていこうとする。この意味で他人志向型の人間の心理機構はレーダーに例えられる。

 (中略)20世紀アメリカの大都市の上層中産階級にもっとも早く現れ、その後、大衆社会状況の進展につれて広く一般化した。つまり、このタイプは資本主義の高度化によって生産や仕事そのものよりも、うしろ消費や人間関係に重点が移ってくるような社会において支配的となる性格類型であり、またそのような社会にもっともよく適合した性格類型といえる。

 

  ちなみに伝統志向型とは、上の2つの類型に歴史的に先立つものとされて、

 自分が所属している社会の伝統的な行動様式(慣習・儀礼・エチケットなど)に忠実に従うことを自分の行動の基準とする性格類型をいう。社会変化の速度が緩やかで、家族や血縁集団の依存度が高く、価値体系がかなり固定的であるような社会(たとえば西洋の中世封建社会)では、伝統思考型がもっとも普通の性格類型であり、また社会適応にとっても有利である。

  であるけれども、資本主義が発展して、近代的な市民社会が成立してくると、うまく適応できず、これにかわって自分の内部や信念をよりどころにして自主的に行動する内部志向型が優勢になってくる、のだそうな。

 

 なるほど…。私の性格も、時代の賜物なのか。つまり「この時代、よくいる人」なわけだ…。とほほ。資本主義が成熟しきった今、同じように他人志向型の人間があふれているから、生き方指南を求める人が街中あふれかえっているのである。そしてソール・ライターをはじめ、いわゆる芸術家は完全に内部志向型人間。

 こんなふうに人間を3つにわけられて言い切られると、「そんな簡単じゃないや」と抗いたくもなるが、でもまあ、かなり的を得ている気もするので、つい話を聞いてしまう。

 内部志向型に対する最後の一言が秀逸だ。

 内部志向型は、常識的な価値判断においては、望ましい性格として理想化されがちであるが、反面、その剛直さや個性の強さが、ときに独善主義や偏狭さ、他者への感受性の欠如や不寛容、所有と獲得への執着などとして現れるという点も見落とすべきではない。

 

 

  とまあ、たしかにその通りで、ソール・ライターなも後年は生活費にも事欠いて、友人に頼り切っていたらしいから、さぞ迷惑な人だったろう。スティーブ・ジョブスピカソも、シャレにならないくらい性格悪かったらしいしなあ…。全てにバランスの取れた人格など、そうめったにあるものじゃないということなのか。

 不完全、それもまたよし

 そう、そうなのだ。

だから、つまり、全てに優れてなくてもいいのである。優れてたらいいけれども、優れてなくてもいいのである。

 芸術作品も、忘れられたっていいのである。超一流の、最上のものを目指して誰もがものを作っているのだろう、だけど、なかなかそれは達成できない。そしたらそれでいいのではないか。「これは完璧とは程遠い作品だ」「あの人は本物じゃないから」と切り捨ててしまうのではなく、それはそれで楽しむ。不完全な作品、不出来な人生を愛でる、面白がる。人間も同じ。「ああ、この人、ここが最悪」と思っても、「まあいいや」と放置してつきあう。正しい(とされている方向)に矯正しようとしない。そのまま、let it goだ。

 不完全、それもまたよし。これができると、毎日が変わると思う。だって世の中は不完全な人とものだらけだからだ。

  …まあ、とはいえ、発展途上の私は、まだできる日とできない日があるのだけれども。だからこうして文字にしてみて、自分に言い聞かせているのである。

 

 

おまけ

成熟しきった資本主義社会において、内部型志向を貫く(と思う)山田孝之。「東京都北区赤羽」「山田孝之のカンヌ映画祭」で、その恥のさらしっぷりがあまりにもかっこよくて、夢中です。誰の意見も聞かない。自分をとことん信じている。どんなに裏切られても。そしてそれを恥じない。なにがここまで深く強く、彼を確信させるのか。謎すぎて目が離せない。

 よく考えてみれば映画「電車男」のときから、「この人いい」とは思っていたのだが…。

映画の監督はだめだめだったが、それ以外は素晴らしい、それを体現しているCMのトラックが爆音で通り過ぎた。

40代のお金の使い方

 VIRONでお昼を食べた。

 

 パンはもちろん、料理もデザートも、いつも確実においしいVIRON。そしていつも確実にお高いVIRON。この日のランチは大山鶏のモロッコ風サラダ、¥1800。白金豚(だったかなあ……)のロースト、ドフィノア添え、¥2000とさんざん悩んで、サラダも食べたかったので鶏にした。

 

 たっぷりの葉野菜、惜しみなく添えられた色どり野菜。これがプロの火入れか!とうなるジューシーな肉の食べごたえ。量もたっぷり。ああ、うまいなあ、と思いつつ、いつもここで思うのは、この値段を出さないと、このレベルのものは食べられないのだろうか、という疑問である。だって、お値打ちのはずのランチで、¥1800である。スープも、ドリンクも、もちろんデザートもついてないのだ。お茶、飲みたいです。この素敵な空間で余韻を楽しみながら。でもお茶に¥800出すなら、タリーズでも行こうか、と思ってしまう。ほんとは野菜サラダもしくはマリネ¥800に豚ロースと¥2000、お茶¥800に、なんならデザートのプロフィットロール¥800(だったかな?)だって頼みたい。でもすると、合計五千円くらいになってしまう。以前は“たまにだから”とかうそぶいてオーダーしてたけど、もう無職の私にはできない。

 以前、ここのシェフの牛尾さんのロングインタビューを読んで、VIRONがいかによい素材を使っているか、この値段はむしろ安いくらいなのだ、ということを知って以来、「高すぎるよね」と思わないようにしていたのだが、やっぱり安くはないよね。というか、私には高い。そして必ず、このレベルの味を東京で出すには、この値段を出さなきゃいけないのか? どうしても? という、最初の疑問が沸いてきて止められないのだ。

 

 …と書いてて、思い出した。昨年、池袋のイタリアンレストラン

「オステリア・ピノ・ジョーヴァネ」でランチを食べたとき、「たとえ東京のど真ん中でも、あの値段を出さなくても相当な満足は得られる」と確信したのだ。残念ながら写真は撮らなかった。しかし味と量、サービス、すべてかなり満足度が高く、池袋もめったに来ない場所だが、この店のために来てもいいかもしれない、とすら思った。

http://www.pino-giovane.com/wp-content/uploads/lunch_img_01.jpg

2400円で

 スープと前菜3点の盛り合わせ

 パスタ 

 メイン(たとえば山形三元豚の網焼き 香草風味 サラダ添え)

 自家製パン

 ドルチェ(フランボワーズのティラミス)

 珈琲か紅茶

  が出てきて、それぞれかなりの量なのである。この写真は店のHPからお借りしたのだが、この写真にはメインがない。つまり、2400円コースなら(1800円もある)このほかにさらに肉料理がつくのだ…。

そう、でもたしかここも旦那さんがシェフで奥さんが給仕をしていた。つまり個人店なわけで、だからこういうことができるのだろう。

いつか書いたように、大きな店と小さな店は違うのだ。

camecon.hatenablog.com

 

 ふたりでやっているだけあって(ディナータイムは違うのかも?)、それは小さな小さな店で、VIRONのようにたくさんのお客さんにまぎれこむようなくつろぎかたはできないのだが、まあ、そういうところに値段の差が出るのでしょう。とくに東京駅のVIRONの広さと開放感、そして椅子からカウンターから、すべてしみじみと「いい素材」を感じる内装などは、ちょっとやそっとの資金では調達できないだろうし。

 

 ちなみに池袋でこんなふうに結論づけたあと、半年ぶりにでかけたVIRONで、サラダの葉っぱがけっこうくたびれていて、それでかなり興が醒めたので、最近は前ほどいかなくなった。言えば取り替えてくれたのだろうが…。お店のためにも言ってあげるべきだったような気もするが…。

 

散財とわたくし

 さらに難しいのは、お金というものが相対的なものだということである。「正当な価格」と「私にとっての正当な価格」がけっこう違うのだ…。残念ながら。若いときは素材やら作りやらが素晴らしくて、それが「正当な価格」だと思われるものなら、私の経済状況はいっさい関係なく購入していた。なんか、それが善だと思っていた。「買うべきである」と思っていた。そして、けっこうのちのち苦しい思いをした。当然ながら…。

 世の中には、それだけの値段を払ってようやく、それを作った人が生活を賄えるもの、というのがいっぱいある。通常の5倍の手間をかけて、通常の半分しか収穫できないトマトだの、その技術を習得するのに何十年もかかる銅鍋だの、木材を何十年も乾燥させてようやく使える無垢材家具だの…。例えば新築マンションは、その価格の半分は広告費、なんて話を聞くと、意地でも新築は買わないぞ、なんて思うけれど、前者のように、その値段にふさわしい理由がついていれば、どんなに高くても納得しなければならない。

 しかし、ではそれを私が必ず買うのかというと違うんだよなあ、ということに、私はだいぶ大人になってから気づいた。まあ言ってみれば分不相応ということか。そのものがどれだけ素晴らしいものでも、それはイコール「では買いましょう」にはならないのだ。そこにやっと気づいた。遅ればせながら。

 子供の頃から「みんな平等です」と言われ続けて育ったせいなのか、80年代のバブルが青春時代だったせいか、「素敵だけど今の私にはふさわしくない」という謙虚な感覚を、ほとんどもったことがなかったのだ。いいものは、すべからく買わなければならないと思っていた。

 でもいつのまにか、「素敵! 欲しい!」と閃いた数秒後、「でも今の私には“良すぎる”ものじゃないか?」という考えがわくようになった。「これはまさしく素晴らしい品物だけど、私には必要はないのでは?」と。

 私の経済の歴史を書くと

~31歳まで 散財しまくる

31~36歳 散財に疲れ、反動で「なにもいらない、なにも買わない」と言い出す

36~40歳 やっぱり欲しいものは欲しいしな、と思い始める。買わないときが長く続いてフラストレーションがたまり、たまにどかっと無駄なものを買って後悔する、と繰り返す。

40~46歳(現在) 使い勝手、試用期間、持つことの効果、今の経済状況などを考え合わせ、「価値あり」と厳選したものだけ買う

 

 という流れで、今ようやくお金と穏やかにつきあっている。「価値あり」のものというのは、つまり「絶対後悔しないもの」である。長く生きていろんなことが予測できるようになったので、「この先後悔するかしないか」もだいたいわかるようになったというわけだ。昔は稼いでは使う、の繰り返しで、友達もすごくたくさんいたし、いろいろ遊んでいたし、たぶん傍からすれば「あの頃は活躍してたのにね」などと思われていそうだが、でも今はあの頃の「あれが欲しい。でもお金が足りない」「あれを買ってしまった。支払いどうしよう」という苦悩が消えたので、とても幸せだ。

  謙虚でありつつも、決して「どうせ貧乏ですからね」と卑屈にはならない。とびきりおいしいオリーブオイルを知っているけれど、でも今の私には750mlのオイルに4500円も払えないから、半額以下のものを使う。でもそれを、仕方なく使っているのではなく、喜んで使っている、そのへんの生活態度がいいんじゃないかと、最近は思っている。

 

快眠法その1、そしてアトピー患者が最後に行くところ

鼻呼吸で邪念を追い出そう

 不調も続くと普通になる、ということで、睡眠障害も、日中のぼんやりにも、それなりに対応しつつある今日この頃。諦めたりあがいたりやりすごしたりしているうちに、睡眠障害については、ひとつ方法を見つけた。

 それは寝る前にゆっくり鼻呼吸をするということ。まず私の入眠儀式を説明すると、寝床に入ってから小さい灯りをつけ、しばらく本を読む。するといつのまにか“数十秒、目をつぶっている”時間、というのが訪れる。は、と起きてまた続きを読む。また目をつぶっている。これを数回繰り返すと、「ああ、もうほんとに眠たいのだ」と判断して、すばやく灯りを消して眠る、という具合。うまくいけばこのまますーっと眠れるのだが、最近はうまくいかないので、電気を消したあとに、はた、と意識が冴えて、「あれ、考えることがない」と思う。すると自動的にくらーい考え…老い先の不安とか、過去の大失態とか、己の限界とか、天変地異とか…が、次々の脳内に攻めこんできて、興奮して眠れなくなる、という図式だ。

 この、神経が興奮して全身が硬くなるのがいけないのだよな、と判断して、そういえばヨガのときの鼻呼吸は身心ともにゆるむなあと思い出し、やってみることにした。こつは、灯りを消して「さあ寝よう」というところから呼吸を始めるのではなく、本を読んでいる段階から、呼吸しておくことである。鼻でながーく吸って、鼻、もしくは口からながーく出す。でも長さを意識するとそこに気をとられすぎてリラックスしないので(とくに吐く息は、最初は短くしかできない)、ともかく鼻で静かに呼吸しておこう、というくらいがちょうどいいようだ。息の量とか長さよりも、すーっ(と吸う)、ふーっ(と吐く)、がリズミカルであること。いっち、にぃー、と数を数えるくらいリズムをつけて、そう、それこそ船でも漕ぐような感じで呼吸していると、副交感神経が元気になるようで、腹の奥がじんわり重くなり、落ち着いてくる。で、実際その数分後、(うまくいけば)船を漕ぐわけである。

 さあ寝ようと消灯してまぶたを閉じてから呼吸を開始するより、読書中のときから、なんなら寝る前、歯でも磨きながら始めるとよい気がする。まぶたを閉じてからでは緊張してしまう。

 

⇧今読んでる本。「精霊たちの家」。イサベル・アジェンデ著。いわゆる南米マジックリアリズム、ある家族の壮大な物語。ものすごくおもしろいです。夢中で読んでしまいます。

 

 鼻呼吸をやるようになったら、だいぶ寝付きはよくなった。たとえしばらく眠れなくても、「眠れない。することがない」と思ったときに、もう条件反射的になってしまった「恐ろしいことを心配する」のではなく、「じゃ、呼吸して(眠りが訪れるのを)待つか」と考えられるようになったので、精神衛生上はだいぶよいのではないだろうか。

 

眠りにつくまえに不安になる

 それにしても、消灯してから眠りに落ちるまでの間、「考えることがない」ってなんなんでしょうか。それはたぶん、私が活字中毒で、頭が暇になると自動的に読むものを探してしまうからだと思うのだが、他の人はどうなんだろう。

 眠る直前、怖いことばかり考えるようになった、のは40代で初めて経験した。いや、初めては38歳くらいかな。仕事を辞めて、夫の都合で田舎に引っ越して、初めての夜。「ああ、これからの人生どうなっちゃうんだろう」と思って、めっちゃくちゃ恐怖を感じた。初めてだったので、よく覚えているのだ。「なにが起きたわけでもないが、まるで悪夢を見たかのように、自分で生み出した不安が恐ろしくてたまらない」という現象。

 でもそれから毎晩そう思うようになったわけではなく、そのあとはなんかいろいろと新しいことをして忙しくしていたので、寝床→読書→ふっと眠気が→気を失うように眠る、という理想的な寝方をしていた。その前は、眠る前は、明日したいこと、来年したいこと、十年先にできたらいいこと、なんてのを希望いっぱいで念じていた。念じれば叶うと思っていたわけではないのだが、まあ、なにも考えないよりいいだろう、と思って。今は……なんだろう、もうできないなあ。なんでかわからないが、やる気になれないなあ。

 

 眠りに落ちる手前に意識があると、ろくなことを考えないというのが習慣化したのは、やはりここ数年だ。この不安が入ってこないように、別のことで頭をいっぱいにしておけばいいのか、と、鼻呼吸をしてわかった。すーっ、はーっ、と言い続ける。数を数える。これやってるだけで、不思議なことに、邪悪な考えは結構去ってくれるのだ。

 

町でぐったりするのも大事らしい

 この鼻呼吸と、再開したマルチビタミン亜鉛強化とノニを飲むこと。寝る1時間前はなるべくテレビもスマホもPCも消してシーンとした気持ちよさを味わうこと。そして昼間、町に出てうろうろすること。このへんを行うと、私の場合、わりと眠れるようだ。家にずっといると、私としてはやることがいっぱいあって忙しいつもりなのだが、どうも身体の芯から疲れないらしい。たとえヨガをしてランニングをしても、眠れない、という日は多い。

 けれど、外出してぐったりすると、ほぼ確実によく眠れる。外に出て、電車に乗って、人にまみれて、うんざり&ぐったりする。これを味わった日は、だいたい眠れる。そしてこのぐったり感は、明らかに運動の疲労とは違う…。なんなのだろう。こんなこと、どこの睡眠本にも書いてないのだが。メンタルが疲れているか疲れていないか、ということなのかな。今書いてて思ったけれど。家にいると、人と関わらなくてもすむので、気持ちがぐったりしないからかもしれない。

 

断水。9時から17時まで

  しかし、家にいてはいけない日、というのもあるのであった。この間の金曜はその日だった。朝の9時から17時まで。がっつり水が出ないので、外に出なければいけない。しかし水曜にまだ痛みの残る腰に無理させて、外出→映画鑑賞→銀座を徘徊…したため、木曜朝は激痛で起きた。これでは遠出も怖くてできない。どうしようか…と考えて、行くべきところを思いついた。

 

 それは渋谷の皮膚科であった。

 私はアトピー性皮膚炎である。大人になったら花粉症の時期以外、ほとんど症状がでなくなったのだが、これも40代になってから、ものすごく激しいかゆみの襲われるようになった。だいたい年に2回、かゆくてたまらなくて体中ぼろぼろになってしまう。かゆみそのものは1か月で終わっても、その傷あとは長いこと消えないので、エステ、プールの類はもちろん行けないし、真夏も長袖しか着れない、なんてことにもなる。

 更年期でアトピーが悪化するというのはよくあることらしい。要するに女性ホルモンが減って、肌が乾きまくるせいなのだとか。子供の頃が一番ひどくて、あとはもうよくなっていくのみ、となんとなく思っていただけに、突然の悪化になんか不意打ちをくらったような気分だ。

 しかし去年は、その激しいかゆみが1回しか起きなかった。だいぶ長いこと落ち着いていたので、肌も復活し、よし、今年の夏はちゃんと半袖着れるぞ、とはりきっていたら、ついこの間からおかしくなってきた。市販の薬やらなにやら、いろいろしてきたけど、どんどんかゆみが悪化し、もはや日常生活にも支障が。あー、もうあそこへ行かなければいけないのか…と考え初めていたのである。

 

⇧今年は半袖着るぞ!と張り切って、大枚はたいて買ったsacaiのTシャツ。今年は着れないかもなあ…。

 

 それが渋谷の皮膚科、美馬皮膚科

 そうだ、今日こそ、ここに行くべきなのだ、金曜はとくに混んでるけど行くしかない。行ってこの苦しみから解放してもらうしかない、と決心した。

⇧スタバのビルの3階。ブレてよく見えないですけど…。

 

 この病院はアトピーに苦しむ人々の間ではもはや常識の有名皮膚科だ。いろいろと変わってる皮膚科なので、非アトピー人にはまるで意味ない記事かもしれないと思いつつ、このブログは「いろんな人がいるね」というのが裏テーマでもあるので(?)、書いてみる。

 ここの先生は薬の魔術師、なんて呼ばれることもあるくらい、その処方薬に特徴がある。数々の薬を先生独自の配合でブレンドして、それをかゆみのある部位別に処方する。「頭」「顔」「首」「からだ」「手」「目の周り」と全身をわけ、その部位にそれぞれ3つ薬が出る。保湿、薬1、薬2、という具合だ。なんでも、「3つ塗らないと効かない」のだそうだ。

「このまま掻き続けて死ぬかもしれない」まで悪化していた2年前、同じアトピー友に「行ってみる?」と教えてもらって出かけたとき、私がもらった薬の量は実に18種類だった。

 さらに保湿スプレーと飲み薬ももらった。

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 で、みるみるうちになおった。わー、と声をあげたくなるほどすごい勢いでかゆみがなくなった。まさに魔術師のしごとである。三国連太郎似(友人は、仲代達矢似よね、と言う)の色男、美馬医師。私は医師の処方術とその即効性に驚いた。これはみんな通うわ。

 しかし、その後も、かゆくなったら即出かけるのではなく、できるだけ行かないですませたい、と我慢を続けて結局大変なことになってしまうのは、これらの薬がステロイドだからである。ステロイドはあかん、と刷り込まれているからである。でもしかし、とにかくかゆみが出たら、さっとステロイドを塗ってさっと抑えて、ほかに広げない、というのが本当なのだ、という説もある。実際、かゆみが出始めたら、もう塗らないことにはどうにもならない、というのが実感としてある。それでもまあ、塗らないですむならすませたいよね…とぐずぐずやってて、最大限に悪化してようやく行く…というのが毎年の有様だ。

 

変な病院なのだ

 とにかく風変わりな病院なので、たとえ薬がステロイドでなくても、行かないですむなら行きたくないのである…。美馬医師の美貌はおがみたいけれど。

 まず、場所が渋谷の道玄坂、東急本店の目の前である。渋谷…行くだけでげっそり疲れる町(だから眠れる町?)。しかも行ったら、徒歩2分のところにVIRONがあって、こんな目の前に来たら食べないで帰れるか、ということになってしまう。たとえそのときどれだけダイエットしていても。

 そして、そんな病院だから、当然すごい人で、待ち時間も長い。診察まで30分。診察20秒、看護婦さんとのトーク5~10分、会計まで40分、そして薬を処方してもらうのに1時間。これは平日で、土曜などはもうとんでもない混み方をするらしい。

 

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⇧こうやって病院の外にまで人があふれているのが常態。

 

 注目は診察20秒、であろう。これは嘘ではない。ほぼこんなふうに、一陣の風のように終わってしまうのだ。

 だいたい診察室の様子から変わっていて、ものすごいオープンというか、プライバシーはない。

 ⇧描いてみた。ひまだな、私…。

 

 先生、患者、そのすぐ後ろに、次の患者たちが数人立って待っている。患者は立っている人たちに自分の症状をすべて聞かれることを覚悟する。「先生、もう夜中かゆくてねえ」などという話を、聞かないようにしながら聞いてしまう。しかし皮膚科なので、私のように目も当てられない身体の人も多くいるわけで、そういう人らは奥のベッドに腰掛けさせられ、さっとカーテンをひいてもらう、という仕組みだ。

 先生の周りにはつねに3〜5人の看護師。無骨な医師をフォローするために、このくらいは必要なのだろう。他に受付にも3人くらいいる。この看護師さんたちが、医師のたりないところを補ってあまりある働きぶりで、ちょこまか動き、細かいところに気がつき、そしてとても優しいので、いつも深く感心してしまう。

 

 当の美貌の医師はとにかくぶっきらぼう。目の前に座ると、カルテを見ながら、こちらの顔はひとつも見ず、「で、なに?」とか言う。

 いや、だからかゆいから来てるんでしょうが、と思いつつ、

「はあ、またひどくなりまして…」

「ええ? なにが? ああ、かゆいの。あ、そう。薬はぁ? ない?」

 ねえよ…。だから来たんだよ…。と、いくら色男でも許せない、と思いながら、尋問に耐えること十秒。医師は私の傷の様子など、横目でちらりと見ただけで、目の前に座って必死でカルテを書き込む看護婦に、

「じゃ、あれやって」

 と指示代名詞を言いつけて、診察終了。一陣の風、電光石火、花火のような診察だ。

 

 で、別の部屋に移動して座っていると、看護師さんがやってきて、みっちりと身体の症状を聞き、どんな薬を出すのかなどを詳しく話してくれる、という段取りなのである。この診察のときに、看護師がいつも薬を塗ってくれる。「ああ、これはつらいでしょうねえ。夜は? 眠れますか?」「かゆいときはね、冷やすとね…若干おさまるんですよね…」「湯船はほどほどにしないと血行よくなってかゆみが出ちゃうのよね…」「かゆみがおさまってからもしばらく塗り続けることが大切なんですよね」等々、私の前にかがみこみ、優しい声で同情しながら、じっくり時間をかけ、そっと患部に薬を塗ってくれる。両手で、そっとそっと塗ってくれる。塗ったあと、そっとまた両手でおさえてくれる。これが、かなり感動的に素晴らしいのである。最初に言ったときは、まさかこんなに優しく全身に薬を塗ってもらえるとは夢にも思わなかったので、なんというかありがたくて泣きそうになった。そもそもぼろぼろの身体で自己憐憫的になっているから、こういう種類の優しさはものすごく効くのだ。

 

 そうだ、今日も薬を塗ってもらって優しくしてもらおう、とはりきって今日もやってきたのだ。この体で、予定していたエステ(年に一度の半額キャンペーンだった)も行かなかったからそのかわりだ!と。

 そしたら、今日は塗ってくれなかった………ああー、なぜ!? 隣のおばあさんには塗ってたのに、なぜ!? やっぱり私にはもうろくなことが起きないわけ!? 敗因はなんとなくわかる。医師の前で、もっと袖とかめくりあげて、重病ぶりをアピールするべきであったのに、医師との会話が苦痛なあまり、ほとんどなにも言わなかったから、症状を軽んじられたのだ。気丈なふるまいのせいで、「この人はいますぐなんとかしてあげないと」と思わせられなかったのだ。看護師診察は、「なにがほしい」「これはいらない」などという会話だけで終わってしまった。とても「あたしにも塗ってください」とは言えなかった…。あああ。

 そしてこのあとが長い。会計までもかなり待つし、処方箋を出してからは軽く1時間はかかる。なにしろ絶妙なブレンドの薬ばかりだから、近所の薬局でいいや、というわけにもいかず、そして調剤師さんたちも大変なのだろう。「おなかすいた…」とうなだれながら待って、ようやく名前を呼ばれて会計すると、5610円!

 このとき、なぜ私がぎりぎりまでここに来ないのかを、思い出した。薬代が高いからだ‼︎ 診察台含めて6000円以上! つらい金額です!

⇧2年前よりは減ったが…。ちなみにスプレータイプのものは、いわゆる保湿ローションなのだが、絶妙なとろみがついた素晴らしいローションで、ぐぐったらみんな感動していた。下手なボディローション買うなら、皮膚科でこれを出してもらったらいいと思う。3割負担で1本700円くらい。顔の化粧水として使ってもいいと思う。ちょっと前は「ビーソフテン」という名前で、今は「ヘパリン類似物質」と難しくなった。

 

 いろいろと文句を言ってきたが、この日の夜、風呂上がりにしっかりと、がっつりと薬を塗ったら、翌朝はどこもかゆくなかった。ああ……どこにもかゆいところがない。それがこんなに穏やかな心を生むとは。しみじみと薬のありがたさを感じた朝であった。

 

 断水の日のおでかけは、後半に続く。

今日が最後の日

今日は最後の晴れの日、らしい

 不調つづく。

眠れない、起きてもだるい、とぶつぶつ言いつつ、ギックリ腰は回復に向かっていたので、パワーヨガやランニングを再開していたのだが、昨日突然悪化。寝てても痛いという状況ではごはんを作るのがやっとである。「調子悪くて当たり前」とどれだけ呟いても、諦めはつくけれど痛みは去らない。

 

 しかし、外を見渡せば、現在一年のうちでも最も美しく、気持ちよい季節なのであった。「関東地方、明日は梅雨前の貴重な晴れになるかもしれません」などと気象予報士が言ったりしていて、ああ、この最高に素晴らしい季節が去っていく、と焦る。ランニングにも最適なのは、このときと、あとは初秋くらいしかないのに…。

 

⇧我が家からの眺め。この大きな木にどれだけ助けられてることか…。しかし借景なので、誰かがこの木を奪わないことを日々祈ってもいる。

 

新緑大好き

 新緑が、実際どれくらい私の気力回復に役立っているかは不明だけれど、なにが好きかと聞かれたら、「新緑です」ときっぱり答えたい。それくらい生まれたばかりの、水もしたたるような美しい葉っぱたちが好きである。五月になり、すごい勢いで増殖する木々や葉に囲まれると、目が、頭が、細胞全部がじゃぶじゃぶ洗われてる気がする。

 この時期は、部屋からぼーっと木々を眺め、ランニングも毎日する。毎日走ると結構膝が痛いし、実際腰も再悪化したけれど、それでも「調子悪ければ走らず歩けばいい」と思いながら、外に出てしまう。この乾いた空気と風、つやつやの新緑は、本当に期間限定、今しか味わえない。

 子供の頃から「無精たらしい」「怠け者」とさんざん言われ、とにかくできるだけ楽したいと思って生きてきた典型的な駄目人間が、よくもここまで変わったものである。変わったけど、その塩梅がわからず、だから年がら年中、運動しては腰だの首だのを痛めては寝込んでいるのだけど。

 

 掃除だの保存食作りだのと違って、新緑を浴びたからといって、じゃあ実際自分にどれだけ益があるのかはよくわからない。公園に行ったから即やる気が出るってもんでもないし、新しいアイディアがわくわけでもないし…。ただ「あー気持ちいいなあ」と思うだけだ。それでも、最近、低空飛行な日々のなかで、新緑はわずかな希望であることは事実。新緑を眺めて「小さく喜ぶ」を積み重ねて、なんとか気力をつないでいる、というのが実情なのかもしれない。

  例えば、毎朝の楽しみ、アボカド栽培。水につけて1か月、ようやく根が出た。

いったん根が出たら、毎日目に見えるほどぐんぐん成長する。ほかの2つはいっこうに根が出る気配がない。そんな簡単に発芽するもんでもないのかも。3つ用意してよかった。しかしこのあと、どうしたらいいのだろう? 調べないとわからない…。

 

 昨年はがんがん成長していたのに、今年ぱたっと活動休止してしまった、名前もわからない和風な植物。よくみたら根が露出してる。土もかっちんこっちん。慌てて植え替えする。去年育ったぶんだけ、根がものすごく成長して、鉢いっぱいにまわり、硬化してしまった。うっそ…と言いながらなんとか鉢から取り出し、根をカットし(まさに大手術、とこういう植え替えをするときいつも思う)、別の鉢に植え替える。

 

 やる気がやる気を呼んで、テンションが少しあがったので、ランニングの帰りに野菜の苗を買う。

 

 

 鉢底石や、鉢底石のかわりにつかっていた炭をぐらぐら煮て煮沸消毒し、あいていた大きなプランターにまとめて植える。花屋さんが「まとめて植えていいですよ」って言うから…。ほんとかしら。

 

 パクチー、バジル、大葉、そしてゴーヤ。しょっちゅう食べたいけど買うと結構高いし、中途半端に量が多い、というハーブと、最近妙においしいと思うゴーヤ

 

 部屋のウンベラータも生え変わりの時期。

 次々と葉が黄色くなって落ち始めた。これは昨年3月にいただいたものなのだが、6月になったら、次々落葉して、ついにあと2枚、ほぼ丸坊主になってしまった。ものすごく心配した。「やっぱりなにも育てられない人間なのか…」とまで思い詰めたのだけど、しばらくしたら今度は驚くほどの勢いで新芽が出てきて、真夏にはもらったときの倍くらいの大きさにまで繁り、置く場所を変えなくてはならないほどだった。

 うちには子供がいないので、こうやって、「めきめきと成長するもの」が家のなかにいるっていうのは、なかなかの興奮剤になる。人付きあい苦手だから、口をきかない植物がお友達または家族としてはちょうどいいのかも…と、ホップ酵母に対して思うことと同じことを、また思う。

 

 このときまめに使ってた栄養剤「メネデール」が効いたのだと思って、以来この薬を信奉している。

 

 さあ、これで楽しみができた。毎日、成長ぶりを眺めてわくわくしようではないか。

ランニングコースもグリーンルートで

 いろいろと園芸作業をして、夕方には公園に走りに行く。この家に越して4年なのだが、コンクリートジャングルな住宅街や環七などを走って、「なんかもっと走りたくなるような場所はないのか…」と長いことウロウロし続けて、昨年ようやく「爽快ルート」を発見、設定できた。まあ要するに、緑の多い、車の少ない(音楽聴いて走るので危ない)ルート、ということである。

 

⇧近所の病院の公園を抜け…。

 

住宅街も抜けて公園にたどり着く。

この季節はあまりの緑の豊かさに、はーっと毎回軽く感動する。

 

 

 この日は、三味線(?)をひき、踊りの練習をする人たちとか、犬と絵になる風情で座っているおじさん、などがいた。

⇧犬、かわいい

 

 以前にも、アコーディオンをひくおばさんと、詩(か絵本か?)を朗読するおばさんの二人組などがいたなあ。あれは驚いた…。あとは、豚…子豚じゃなくて、成豚…を、ひもにつないで散歩させてる外人とかもいたな。

 

 …という具合に、わりと公園には事件(?)が多くて、実はエキサイティングな場所である。

 

25回めから本領発揮のケンドリック・ラマー 

 今のBGMは出たばかりのケンドリック・ラマーの新作。

 

 ヒップホップのビートは、走るのに最適である。早すぎず遅すぎず。麻薬的なループが延々と繰り返されているのを聞きながら足を運んでいると、たしかに今セロトニンが出てるはず、とはっきり確信するような、なんというのだろう“快感のリズム”が体内をめぐっていることを感じるのだ。

 ケンドリック・ラマーの音楽は、初めて聞くときよりも10回めのほうがよく感じて、ま、これは普通なのだけど、さらに30回めのほうがなおよく聞こえる、という、なんか恐ろしいものである。普通は、「聴けば聴くほどいいなあ」と思っても、さすがに20回も繰り返せば、慣れてくるし飽きてくるし、興奮も覚める。しかし彼の場合は、25回めくらいからが本領発揮なのである。

 新鮮さは完全に消滅したあとにさらに聴くと、あれ?これ、こんな曲だったのか…と、新しい地平が見えてくる。洗練されていると思っていた曲が野蛮に感じたり、ただしゃべってるだけのように聞こえたラップに、いつのまにか、もういっかい繰り返さずにいられないほど中毒させられていたり。決してポップではないのだけど、中毒性は限りなく高い。何風なのかと説明もしずらい。ジャジーにも聞こえるし、ウエッサイぽくも聞こえるし、ソウルフルでもあるし…。今までのヒップホップの流儀をぜんぶ取り込んで、でも確実に新しい聞き応え。

 ⇧数年前に出たアルバム、『To Pimp a Butterfly』は、今でも愛聴している。凄まじい持続力である。

 流行り音楽を追うのも、体力いるんだよなあと知って驚いたのは数年前。わざわざ努力しないと、昔の曲ばっか聴いてしまう。ほんと、なんでもなかったことが、突然すっごくめんどくさい力仕事に思えるのが加齢ってやつなのだ。

 

 さて、最後の「梅雨前の貴重な晴れの日曜日」を大切にしなければ。

 

おまけ

 ランニングの締めの楽しみはスーパー三徳に行くこと。しかし、最近棚がからっぽなんだよな…。熱烈に募集していたアルバイト募集のチラシも消えてしまったし、もしかして閉店してしまうのでは、それを店員に聞けばいいのか、HPでお問い合わせればいいのか、なんも聞かないのがいいのか…というのが私の最新の悩みである。

 

 

 

快眠の方法

覚醒との闘い

 やはり今日も眠れなかった。無理やり4時半に起きたので、ずーっと目の奥が重い。基本的な栄養が足りないのかな?と、以前飲んでいたけどやめたマルチミネラル&ビタミン亜鉛強化、というやつを注文してみた。でもたぶんたいして効かないだろう。なぜならば、以前(ていうか1か月前)飲んで抜群に効いていたノニも、今は効果ないからである。

⇧飲んだ翌日から、だるさが吹き飛び、夜中目が覚めなくなった魔法のジュース。…というのも今は昔のお話。

 

 最近では怒りがわいてきた。この間も夜中に目が覚めて、その後しばらく眠れず何度も寝返りを打ち、あげく、がばっと起きて、「ふざけるな!」と思った。「眠れないってどういうことだよ! 運動もしてる。栄養もとってる。朝もがんばって起きてる。暴飲暴食はしないし、規則正しい生活もしてるし、ろくなことがなくても前向きに生きようとがんばってる! 大枚はたいてノニも買った! なのになんで眠れないわけ!?」

 …とひとしきり怒って、もちろんますます眠れなくなった。当然かもしれない。横では、目を閉じた瞬間にノンレム睡眠が得られる奇跡の夫が穏やかに寝息を立てている。これがますます怒りを募らせる。

 同時に、「眠れなくて怒るっていうのは、新しいな」とも思った。今まで眠れなくて困ったことは何度もあったが、怒ったことはなかったなあ、と。そしてさらに同時に、「これはもうあかん」とも思った。眠りに対して必要なのは一にも二にもリラックス。なのに、私ときたら怒っているのである。これはもうあかんではないのだろうか。実際、布団に入って小さいライトを消すその瞬間、最近思うのは「ちっ。どうせ今日も眠れないんだろうよ」というやけっぱちというか、ふてくされた気分である。

「ハウス・オブ・カード」から天啓

 こんなんなってしまったら、二度と安眠は得られないのではないだろうか。眠りについて考えれば考えるほど、眠れなくなる、これは真理なのだ。でも最近の私は、寝る数時間前から、「ああ、今日も…」などと暗くなっている。そして寝る直前はやさぐれている。そして夜中には、怒っている! なんという負のスパイラル。

 絶望的な気分でドラマ「ハウス・オブ・カード シーズン3」を観ていた。そしたら、大統領に作家が、夜中に呼び出される、というシーンになった。

 

大統領「起こしたか?」

作家「平気です。どのみち眠りは浅い」

 

 このセリフがささった。脚本家もまさかこのセリフが一日本人女性の胸に刺さるとは想像もしていないと思うが…。でも、刺さったのだ。

 えーとつまり、「調子悪くて当たり前」ならぬ「眠れなくて当たり前」もアリなのだ、と認識したのである。「ああ、腰に持病があってね」「アレルギー性鼻炎なの」「疲れると胃にくるんだよね」…という、「人がしょうがないものとしてつきあっている、持病の数々」として、不眠も扱えばいいのかもしれない。「治ったらありがたいけど、治らないからこれが普通として生きている」という状態。「眠れないとなにもかも台無し」という考えを捨てるのだ。眠れないということをデフォルトにして、全てを組み立て直すのだ。

 これはつまり、眠りについてこだわらない、すなわち

 眠りを諦める

  ということなのだ。

 そんなことできるだろうか…。でもあのドラマの中の作家は諦めていた。いともあっさりと。あくびしてるところも見たことないし。

 翻って考えてみれば、行き詰ったときの最終的な解決方法は、「諦める」しかないんだよなあ。問題はいかに「前向きに」諦めるか、である。

 

 

dacyu餃子部の餃子

 セラピーとしてのジャム作りを終え、すこしやる気が出たらしく、昨日は餃子を作ってみた。もちろん皮からだ。餃子の皮を手作りすると、段違いでおいしいものができる。それは知っているのだけど、過去数回チャレンジしたときの大変さを思うと、なかなかめったには手をつけることができないお題でもある。

 しかし今回は、まず前から行きたいと思っていた人気の餃子店に行こうと決め、電話して予約がとれず、しかし餃子気分だけは盛り上がったままなので、夫に「作らなくていいから餃子を買ってきてくれ」と言われ、わかった、と買いにでかけている最中に、あれ?作ればいんじゃないの?とふとやる気が舞い降りた。

 それで翌日の日曜、1日すべて費やすつもりで作ることにした。テキストはダンチュウの餃子特集。

 

ここで「いわゆる餃子作りでやらなければいけない、とされていることは、本当に必要なのか?」という検証がされていて、結果、やらなければいけないと定められたもの(ほとんどがそうだった。しなくていいことはなかった)をまとめた、“究極においしい餃子”のレシピが載っていた。

 

いわく、

●野菜は塩もみするか、茹でるかして水分を抜く。

●肉は、まず肉だけで、ミキサーで白くなるまで徹底的にこねる。

●肉は複数の部位があるといい。

●肉と野菜は同量。

●餡は3時間寝かせてから使う。

●皮は必ずひだを作って閉じる。

●熱々のフライパンに入れる。

●差し湯は必ず熱湯で。

 

 がルールである(いくつかオプションはあるものの)。それぞれみんな、「なぜ必要なのか」が詳細に実験、検証&結論づけ、がされていておもしろい。ここ数年のダンチュウは実験モードで、とてもおもしろいのだ。

 これを忠実に守って餡を作る。しかし皮のレシピがない。さらに数年前の、愛用していた別のダンチュウを探したが見つからない。仕方ないのでネットで検索して、

 

薄力粉100g

強力粉100g、

塩少々、

熱湯100g

 

 の配合で作ってみる。こねて、こちらも数時間寝かせる。

 

ちなみに餡のレシピは

 

キャベツ 130g

パクチー(ダンチュウはニラだったが) 20g

バラ肉 90g

豚ロース肉 60g

塩 少々

 

醤油 小さじ1  

胡椒 少々

ごま油 小さじ1/2

砂糖 小さじ1/2

 

 

昔は半日かけて生地を作ってた、たしか 

 過去、ものっすごく苦戦した記憶があるので朝っぱらから仕込み、何時間でも格闘しようという覚悟だった。確か、皮を小さい円にのばして包む、が大変だった気がする。打ち粉をしても、できた皮と皮がくっついて一体化してしまうのだ。市販の皮みたいに紙のようにさらっとしていないので、伸ばすのも包むのもものすごく大変。気がついたら真っ暗になってた、という記憶があるので、それを大量に仕込んでいたのではないだろうか。

 だが今回は、寝かせた皮を伸ばして小分けにして、円形に伸ばす、という最大の難関が1時間かそこらで終わってしまった。まったく扱いやすい生地で、なんの手間もかからなかった。なぜ? 

⇧きれいには作れない。ぶきっちょだから。

 

⇧きれいには作れない。ぶきっちょだから。

 

 たぶん、昔のレシピは水が多かったのだろう。今回は粉の半分というかなり少なめの量で、だからべたつくこともなく、簡単にできた。そのネットのレシピでは、「どんなに水が少なそう、と感じても、決して増やしてはいけません。べちゃついて扱えなくなります」と書いてあった。つまりそういうことなのだろう。粉の半分の水、なら簡単にできるのだ。しかしたぶん……味を考えるともう少し多いほうがいいと思う。ダンチュウに載っていた高田馬場「餃子荘ムロ」のレシピは水と粉が1:1だった!

 実際、できたものは、市販の皮よりはおいしかったけど、もっとおいしくなれたはず、という感じがした。

 餡はおいしかったけれど、調味料もごくわずか、にんにくも生姜もいれないレシピだったので、濃いタレでないと味がしない。ダンチュウではポン酢と大根おろしを一押ししていた。

 

⇧焼く。左端の物体は、餡がややあまったので、ライスペーパーにアボカドとともに入れて包み、焼いてひっくり返したら破れて中身が出てしまった、というシロモノ。

⇧醤油と青唐辛子酢で食べたらなかなか。

 

 思ったほど大変でなかったのと、「最上、最高」の出来ではなかったので、いまいち達成感は薄かったが、まあでも、「次は水分増やして皮を作ってみよう」という課題もできたし、なにより「餃子を食べたい」という人のために「皮から手作りした」というひと仕事感はある。私もまだまだ誰かの役に立つことができるのだ…。

回復の方法

更年期は「調子悪くて当たり前」

 電池が切れていました。

 何もする気になれない…。

 そのうち回復するだろうと思っていたけれど、いつまでたってもだるさが続き、きわめつけはいつも行くお気に入りの書店で、いつも味わうような楽しさが全く味わえず、なんだか不快な情報だけを得て、暗い気持ちで帰ってきたこと。

 もう外にはなんにも楽しいことはないのである、といつも思ってるけど、さらに強く思って、外出して気晴らしだとか、なにかおいしいもの、おもしろおかしいことを発見するとか、そういう期待はとりあえず持たないことにした。やはり家のなかで、さらに言えば自分の中から、おもしろおかしいことを見つけて回復するしかないのである。

 

 そもそもよく眠れないというのが不調の原因。眠くて布団に入るのに、本を閉じて灯りを消すと、全然眠れない。眠っても、2,3時間で起きる。起きたら、またしばらく眠れない。やっと眠りにつくと、また2時間くらいで目が覚める。それはだいたい起きるべき時間の1時間くらい前で、今起きてもなあ…と思ってうとうとしていると目覚ましが鳴り、そのときはものすっごく眠くて、とんでもなくしんどい思いをして起きる。なんとか起きても、そのまま1日、ずーっと眠い。

 この睡眠障害をあの手この手で克服して、ブログに書こうと考えていたのだけれど、ちっとも克服できないので、記事にもできない。

 

「なにもかもがめんどくさい」

 この状態はまさにこの一言で言い表すことができる。なにもかもがめんどくさくなる病気なのかな?と疑って、調べてみたことがあるほどだ。結果、とくに目新しい情報は得られなかった。更年期の女性はよくこうなるという。「家事をするのがやっと。すぐにソファに倒れ込んでしまう」。よーくわかる。つまり、更年期障害ということか。

 昔、近田春夫ビブラストーンというバンドが「調子悪くてあたりまえ」という曲を作って、「うわあ、すごい」と感動してたけど、今こそほんと、「調子悪くて当たり前」な日々である。

 

回復方法その1 ただ漫画を読む

 こうなると、まず「そのまま流れに従う」というやり方がある。ソファに寝そべって、なにもせず、ひたすらに漫画を読む、というやつである。これは1日なら有効だ。それまで、自分で作ったルールをせっせと守って暮らしていたなら、突然なにも守らない日を作ると結構効く。1日寝てるんだか起きてるんだか、みたいな生活をしていても、夜になるとさらにまた眠れたりする。で、翌朝いつもの起床時間にさっぱり目が覚めたりもする。漫画が良作であれば、気力もわく。

 でもこれは2日以降は効かない。ただただ怠惰が怠惰を呼び、あげくに怠惰のために疲れたりする。あれだけおもしろいと思っていた漫画さえ、読むのがかったるくなってきたりする。自己嫌悪が押し寄せ、体中がだる痛くなり、虚しさが倍増する。だから1日以上はやってはいけない、と私は思っている。

 

 けれど、「何もする気になれない」のが1日で回復することはほとんどなく、一度なったらしばらく続く。そしたら、もう、無理やり動いてやる気を掘り起こすしかない。なにかを始めさえすれば、だいたいはそのうち身体が動いてきて、暗い気持ちも遠のき、やってよかったなあ、と思えたりもする。脳科学の本でも必ず書いてある。「行動を起こさないとやる気はわいてこない」というあれだ。

 

回復方法その2 有益なことをする

 掃除機をかける。ヨガをする。洗濯をする、植木を植え替える…「やるべきこと」「やろうと思っていたこと」「やりたいとかつて思っていたこと」を思い出し、優先順位をつけてひとつひとつ片付けていく。

⇧とりあえず、貧弱な鉢に入ったままちっとも成長しなかった観葉植物を大きな鉢に植え替えてみた。数ヶ月後にはこの鉢いっぱいに育つはず…。

 

 大事なのは、「確実に有益なこと」であること。つまり、私の場合は、ベランダの枯葉を片付ける、はいいけど、パンを大量に焼く、とかは避けたほうがいい。パンを大量に焼く。それは楽しい。でも、焼いたはいいけど、食べる人はほとんどいないという状況だとしたら? 自分は今、炭水化物をなるべく避けていて、家族は夫ひとりしかいなく、配りまくる近所の友人もいない…となると、台所にどーんと置かれた大量のパンやお菓子は、より強い気鬱の原因になりうる。「なにしてんだか…」となってしまうのである。それは憂さ晴らしのやけ食いとか、衝動買い、ゲームに埋没する、に近いものがある。やったあと後悔すること、やってもいいことがないこと、は絶対に避けるべきなのだ。それはさらに私を不幸にする。

 「やってよかった」「ひとつタスクが減った」「やればできるのだ」ということを、無理やりやるのが大事だ。終えたあとの達成感が回復につながる。

 

掃除はそりゃあ効く

 掃除はとても有効だ。もともと掃除、好きでもないし得意でもないので、家のなかにはつねに「気になる場所」がある。そこを、とりあえず一箇所だけ、きれいにする。小さい範囲に限定すれば、掃除が苦手な人間でもこなせる。小さい範囲ならすぐ終わって、すぐいい気分になれる。掃除と整理整頓は頭と身体の両方を使うし、なにしろ終えたあとの爽快感がすさまじいものがあるので、「気が滅入ったら掃除しよう」というのはひとつの救いになっている。ただ「やろう」と決心するまでが遠いのだけど…。掃除嫌いだから…。床の雑巾がけとか、かなり効くのだけど、なにしろやり始めるまでの闘いが大変だ。つまり、効く作業ほど、やるまでの葛藤がつらい。ま、そういうものか。

 でも一箇所片付けたら、「じゃあ明日はあっちを、あさってはこっちを」と芋づる式にやる気がわいてきれいになっていくので、これはとてもいいと思う。

 とはいえ、なにしろ苦手なので、掃除と整理整頓についてここで書くべきような知恵だの発見だの工夫だのはなにもない…。

 

心に効く二大保存食

 保存食作りというのもよくやる手だ。パンを大量に焼いても始末に困ってかえって哀しくなるが、保存食は保存できるので無駄にならない。あと、だいたい黙々と鍋につきそってる、みたいな作業が多いので、心頭滅却?なんだかそんな気持ちになるのである。一つの作業をずーっとやる、という作業はとくにいい気がする。黙々と床を磨く、黙々とカチコチになった植木鉢の土を掘り返す。黙々と字を書く。黙々と走る。そして黙々と鍋をかき回す。

 料理部門ではふたつある。「心に効く二大保存食」と私が勝手に決めているもの、それはジャム作りと飴色玉ねぎ作りである。

 

 今回はジャムにした。春から初夏にかけてはジャムの季節なので忙しいのだ。数々の柑橘類、いちご、アメリカンチェリー、プラム、梅、杏…常日頃スーパーの値段と質を見比べて、「いまだ!」というとき、つまり一番安くていちばんものが良いとき(だと信じたとき。よく見誤る)に大量に買い込んで煮る。よく「ジャムってあまらせちゃって困る」という人がいるけれど、私の場合、毎朝ヨーグルトとグラノーラを食べるので、必需品だ。だからどれだけ大量に作っても、困ることはない。無駄にもならない。大量に作って、ちびちびと、えんえんと、1年かけて毎朝食べるのである。

 素材の果物はスーパーだけでなく、ときにはネット通販で4kg5kgと買い込んだりする。今はニューサマーオレンジが旬で、楽天で安かったので思い切って4kg買ってみた。それがおととい届いたので、この気鬱なときこそ仕込もうではないか、と無理やりやる気を出してみたのである。

 ⇧無農薬だから見かけは悪い。

ニューサマーオレンジの賭け

 ニューサマーオレンジはグレープフルーツみたいに少し苦くて甘い。果肉がぷるんとジューシーでゼリーのようでとてもおいしい。以前これとレモンとドライアプリコットをかけ合わせてジャムを作ったら、予想外においしかったので、今度は4kgと大量に買ってみた。ここは初めて買う店で、賭けであった。でもいつも店のメルマガを読んでいて、すごく丁寧に無農薬栽培をがんばっている様子、毎年いろんな柑橘がそれはもうおいしそうに育っている様子がひしひしと伝わってきたので、安心して思い切って大量購入してみたわけである。

 

 そして、賭けには負けた。

 ここのところ、不要なものを間違えて買ったり、期待はずれだったりと、いろいろとついていなかったのだけど、案の定、ニューサマーオレンジは失敗だった。かなりの数がパサパサだった。しかも、ものすごく皮がぶあつくて、むくと実がびっくりするほど小さくなってしまう。なんだこりゃ…。スイカの皮か…。

 

 あれほど熱く描かれたサイトの文章や写真はなんだったのか? あんなに丁寧にがんばって作っても、こんなふうになってしまうこともある、ということなのだろうか? 柑橘は皮をむくまで中がわからないから、本当に賭けだ。だから「検品不足だ」と店の人を責めることもできないし、もうほんと、運を天に任せるしかないのだが…。こんなとき強く思うのは、「人はどれだけ、“俺はこれだけがんばってる”と思っても、空回りしてしまうものである」ということである。「自分で思ってるほど、結果は伴っていないものである」ということである。

 偉そうに、誇り高く、自分の仕事について語る人たちの多くが、「かなりテキトー」な仕事をしていたりする。こっち側は確かに完璧だけど、あっち側はぼろぼろ、なんてことも多い。自分も含めて、そういう人をたくさん見てきた。だいたいは悪気はない。本人的にはなにも矛盾はない。ただ単に「見えてない」だけなのだ。ある種の死角というか。人は完璧ではない。適度に自分に甘く、誇りなどもある程度持っていたほうが人生楽しく過ごせるから、みんながみんな自分に最高に厳格である必要もないのだが。

 そんなことをあれこれ思いながら、自分の人生も振り返る。…なんかせつない。

 

いろいろ思いつつ作業開始

 あーあ。パサパサの柑橘って、ほんとうに気が滅入るよなあ…とぶつくさ言いながら、もくもくと皮をむき、種を取り出し(これがまたえらい量で、果肉のほとんどが種なのでは?と思ったり…)、小房にわけてボウルに放り込んでいく。皮もざくざく刻んで鍋に入れる。すべてがパサパサではないから、この人たちになんとかがんばってもらって、最終的においしいジャムになってくれ…とほとんど祈りながら作業する。

 

 今回、ニュサマーオレンジのジャムを作ろうと思ったもうひとつの理由は、この柑橘に限っては、「皮のゆでこぼしがいらない」という情報を得たからである。柑橘はあくが強いから、普通は茹でこぼしを3回し、さらに一晩水につけなければいけない。もちろん、すごくめんどくさい。それが、不要だというのだ! えー!? ほんとに!? 驚いた私は、作ってみたくてたまらなくなって注文したのだけれど、よく考えたらその情報も、この店から得たものであった…。急激に店への信用が落ちたので、鍋に入れた生の皮を見つめながら、「ほんとに大丈夫なのかな…」ととても心配になる。店の人の言葉としても載っていたが、レビューにも載っていたことなどを思い出す。「茹でこぼしがいらないので本当に楽です」。その言葉を信じるしかない。

 

お供はEテレ「100分で名著」

 私はお菓子やパンを作るときは、録画しておいたEテレ「100分で名著」という番組を聞きながら(位置的に、台所からテレビ画面はよく見えない)作業する。古今東西の名著と呼ばれる作品を、先生に解説してもらいながら、伊集院光NHK女子アナと共に読み解いていきましょう、という番組である。画面を観なくてもいいから、作業中のBGMとして最適なのだ。名著をテレビでさくっと解説、という番組を観てるというのは恥ずかしいのだが、しかし私はこの番組がかなり好きで、もう何年もこれを聴きながらお菓子を作ってきた。この日は三木清の「人生論ノート」だった。

「幸福と幸福感は違うのです」

 などという、難しい言葉を聞き、戦時中に思想を貫いて投獄され、終戦したにも関わらず、釈放されずに獄死、というすさまじい彼の人生に感銘を受けつつ、4kgのニューサマーオレンジの種をとり身をほぐし皮を刻み、計量をしてその半分の砂糖を投入していく。三木清の回を3回観て、そのあと「三国志」の回に移った。1本25分だから×4本で2時間。

 

加熱開始

⇧やっと第一段階終了。今回も味にこくを出すためにドライアプリコットを入れた。酸っぱいのが好きなのでレモンも入れた。砂糖をまぶしたら、自然に溶けるまで数時間放置。砂糖の浸透圧で果物の水分が出て、その水分で砂糖が溶けるのをしっかり待つのが大切。一晩おいてみる。

 

⇧溶けた。

 翌日、「美味しくなりますように…」と必死で祈りながら、加熱開始。皮や身が透き通って、とろん、とするまで煮詰める。糖度計はめんどくさいから出さなかった。ジャムはフレッシュなおいしさを大切にするために、強火で短時間でさっと煮るべし、とどこにでも書いてあるのだけど、あんまりさらさらしていると、やっぱり実際食べるときに、「なんか違う」と思ってしまうので、ある程度は煮詰めたい。4kgの果物+その半量の砂糖、だと、どんなに強火でもかなり時間がかかる。焦げるので絶えずゴムベラでかき回していなければならない。アクもひかなければならない。なので、鍋から離れることはできない。だいたい「100分で名著」を聴いているか、または本を持ってきて読みながらかき混ぜる。

 しかし、このジャム、全然アクが出ない…なぜだろう? “ニューサマーオレンジは茹でこぼしをしなくていい”はやはり正しいのだろうか。正しくあってくれ…。

煮たあとにまたひと仕事 

⇧40分後。身や皮が透き通っている。正直、やや煮すぎ…。ということに、瓶に詰めるころ、気づく。この見極めが難しい。

 煮上がってから、またひと仕事待っている。私は柑橘は果汁を絞らず、房ごと使うので、今回はすべて房も皮もざっくりとだけ切って煮る。そして煮上がったらミキサーにかける、という手順。これから熱い鍋の中のものを、ミキサーにうつしてかけなければいけない。小さいミキサーにかけてはボウルにあけ、かけてはあけを何度も繰り返す。面倒だ…。ものすごく面倒だ…。でも面倒であるほどセラピーとしてはよい。こういう「しちめんどくさい」作業を、心を決め、腰をすえてやることで、荒立ってふわふわと落ち着かなかった心が凪いでくるのである。「ああ、めんどくせえ」と言いながら作業する。言いながらすると、なんかめんどくささが減る気がする…。

 ミキサーにかけたものを味見をしたら、祈りが届いておいしかった! よかったあ~よかったよ~!と声に出して喜び、しかしもう少し酸味が欲しいので、レモンを2つ追加。

 そして、鍋に戻して殺菌のために再加熱。ジャム状になったものを沸かすと、マグマのように噴出して非常に危険だ。ここまで来るとさすがに嫌になってくるが、あと一息なのでこらえる。殺菌した瓶をずらりと並べて、詰める。

 

 完成!アプリコットを入れたからニューサマーオレンジの鮮やかな黄色とはちょっと違う色になったけれど、きれいである。瓶に詰められたジャムは本当にきれい! 達成感を味わう。あとはこのやたらとでかい銅鍋を洗えば作業終了。

 

がんばったらツキがやってきた

 一生懸命ジャムを煮ていたら、いいことがあった。ずっと前に応募して忘れていた、キュレル現品プレゼントが当たったらしい!

 

↑なにやら立派な箱に入って届いた。もう、やたらとうれしい。箱も立派だからさ再利用しよう、などと思っていたら、“この箱を詰め替えパック入れなどに使ってください”とか書いてある…。ああ、もう日本人って…。