独楽ログ〜こまログ〜

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スペイン旅行記その9 資料を集めよう 中編

 

「昨日の旅~ラテン・アメリカからスペインへ」清水幾太郎

 

清水幾太郎という人の名は、ある世代より上の人たちには避けて通れない名前」

 と、どこかで読んだ。…と、こんな書き方をしているのだから私は“ある世代より上”ではない。大学時代(25年前!)、書店で見かけて「スペインかあ。おもしろそうだなあ」と思って買い、そのまま彼についてなーんにも知らずに読みすすめ、しかし「なんかすごくおもしろい!」とちょっと興奮して読み終えた。…という記憶だけが、25年間残っていた。内容はほとんどなにも覚えていないのだが…。清水幾太郎が何者なのか、当時はネットもなかったし、好奇心も薄い若者だった私は、文庫本カバーにあるプロフィールを読んで知った気になり、ろくに調べもしなかったのでした…。

 

↑すっかりよれよれになってしまった…。表紙絵はエル・グレコ。私はちょっと苦手…。

 

 その25年後、ふと本棚のこの本が目についたのだ。「あ、そうか。これもスペインの本だった。なにひとつ覚えてないからもう一回読んでみよう」。で、読む前に、著者について調べた。

 そしたら、彼は学生運動の闘士だった。「ある年齢以上の人なら、その名を知らない人はいない」ほどの人だった。一般的な説明によると、清水幾太郎という人は、「60年代安保の先頭に立ったスター的存在であり、その戦いに破れたあとは“右旋回”して「日本よ、国家たれ~核の選択」を著して“軍事力を備えよ”、と説いた、社会学者」と説明される。

 ネットで彼を説明する言葉も「すでに忘れられた人」とか「変節者」「思想に一貫性のない目立ちたがり屋」とか、なかなかひどい言葉が並んでいる。そして、ときどき、「あながちそれだけでもない」と擁護する人がちらほらいたり、いなかったり…。著作のAmazonレビューの数はごくわずか。

 

 穏やかでない人だったのだな、と改めて思いつつ読み返したら、でもやっぱりこの本はおもしろかった。かなり、おもしろかった。

 

ささいな旅の出来事が、膨大な記憶と知識の海へ結びつく

 アメリカ各地を回ったあと、南米~中米に入り、さらにまた飛んで、スペインへ。その旅の様子が肩ひじはらず生き生きと描かれていて、まずそれがとても魅力的だ。数ページ読んだだけで、もう自分もブラジルのホテルにいるような気持ちになる。

 

 出発前に「ラテンアメリカでは決して生水を飲まないように」と勧告されたことを守って、どこの国のどこのホテルのボーイが「purificado!」と主張しても(消毒済ですよ!と解釈していた)、かたくなに断ってボトルウォーターを頼み、それがなかなか来なくてイライラし、やっと来たら勘定を払い、チップも払って…というくだりがとにかく鬱陶しく、ついに部屋に冷蔵庫完備のホテルに着いたときの喜び。

  飛行機内で、隣の席の巨体の外国人に圧倒され、搭乗中、「チリの土建屋」と勝手に名付けて一人悶々と、邪推したり遠慮したり、はたまたときに強く出たり…を繰り返してどっと疲れたり。そんなささいな旅の出来事がまず楽しい。このような旅の「よくある、ささいなエピソード」は、本来はよほど本人に興味がない限り退屈なものだ。この人のように妙におもしろく書けるのは、なにが違うからなのだろう?

 そして、そんなエピソードのひとつとして、英語ばかりに囲まれていたアメリカから、英語とスペイン語が併記されたラテンアメリカ(および国境近くのアメリカ南部)に来て、なにか勝利のようなものを感じたことから、なぜ自分が英語よりスペイン語のほうが馴染みがあるのかというと…と、つながっていくのは、安保闘争中にスペイン内乱に猛烈に興味を感じて、スペイン語を特訓したからである、と、スペイン内乱へと話がつながっていく。そして彼の言葉による、内乱の再考。身近な旅の出来事が過去の思い出へつながり、いつのまにか氏の膨大な記憶と知識の海に連れていかれる、これが楽しいのだ。

 

 変節だろうが、目立ちたがり屋だろうが、とにかく懸命に生きて、学んで、だから思うことも思い出すことも、言いたいことも、聞きたいこともたくさんある。そんな人間の目を通して、様々な国が語られる。そういうことが、おもしろいのだと思う。

 そして、それらを実に生々しく、鮮やかに描く文章力。街の喧騒や湿度、風景、そして氏の記憶と感情がまざまざと文字の隙間から浮かび上がる。

 

南米編は、ミステリー仕立て

 前半のブラジル篇は、ここにミステリーの要素も加わる。リオデジャネイロへの主な訪問目的は、オーギュスト・コント(1798~1857)が創設した「人類教」の信者たちに会うこと。オーギュスト・コントとは、“社会学”という言葉の生みの親であり、後半生には「人類教(独自の暦を作ったりなど、これまた興味深い…)」という宗教を立ち上げた人であり、清水幾太郎は彼の研究者でもあるのだ。

 なぜフランス人のコントの思想が、なぜブラジルの一角でだけ(本国フランスでは信者はほぼいないと思われる)生き残っているのか? という命題を抱えつつ、彼は太平洋戦争中の昭和十七年、読売新聞社論説委員として徴用されたときの思い出を語る。軍の命令で広島へ向かう途中の大阪で、偶然入った喫茶店。そこにブラジルの国旗らしきものが掲げてあり、よく見るとコントの有名なモットー、「秩序と進歩」が記してあった。なぜブラジル国旗にコントの言葉が? これは単なる「よくある理想の言葉」なのか? それともコントと関係しているのか? 国旗制定はいったいいつなのだ? …その疑問は説かれぬまま、戦争のさなかに掻き消えてしまった。彼の頭のなかからもすっかり消えてしまったという。そしてだいぶ月日が立った後----この旅行は昭和五十年----彼は突然この喫茶店の光景と疑問を思い出すのである。

 コントの名前など、ついこの間まで知らなかった人間にも、この謎はかなり興奮をかきたてられる。じわじわと解決に迫るさまなど、本当に見事。

 

 ペルー、チリ、アルゼンチン、ブラジル…半分くらいはひどい風邪をひいて夢うつつのような状態で氏の旅は続く。アステカの歴史、インディオの死生観から「生きた宗教」を感じ取り、そこから振り返って現在の日本の宗教のあり方に怒り、病院でお尻に大きな注射をされ、医師にすすめられて「世界三大桃源郷のひとつ」…ほかのふたつは誰も知らない…クエルナバカに療養に行く。毎朝ホテルでアメリカ式の型通りの朝食を食べることを楽しみにし、しかしメキシコ料理はアメリカ料理よりも数倍高級で繊細だとも感じ、ラテンアメリカにおける「アミーゴ(友人)」という言葉の意味の深いところまで実感する…小さなエピソードひとつひとつが楽しくて、そしてためになる。施錠したことのなかったスーツケースの鍵が、なにかの拍子に突然かかってしまい、真夜中に格闘した話もかなり手に汗握った。ようやく開いたときは、氏は泣いていた。

 

そして時代の転換点にあるスペインへ

 氏がいよいよスペインに上陸しようというとき、スペインは揺れていた。独裁者、フランコ総統が死の間際にいたからである。毎日「瀕死らしい」「やや回復の兆し」などのニュースが、中南米にいる氏のもとに届く。そのニュースを読み、フランコ総統がしたこと…スペイン内乱と独裁体制…について、考えていく。そして空港での検閲を考えて、ひっかかりそうなすべての文献----例えば「フランコ後の世界」というトップ記事の新聞なんかも----をひとまとめにして日本に送ってしまう。そういう時代だったのだ。

 氏が「なんとかフランコの生きているうちにスペインへ」と願いつつも、一歩手前のパリにいるときに亡くなってしまった。---が、マドリードの空港に着くと、詳細な荷物検査などなにもなく、あっさりと入国許可が降りる。各国の新聞も堂々と売られている。拍子抜けして、スペイン旅行が始まる。着いた翌日、カルロス1世の即位の日、異様な雰囲気の漂うマドリードをさまよう氏。さまよいながら、スペイン内乱時代への考察はさらに奥深くもぐっていく。

 フランコと、もうひとりの重要人物、ホセ・アントニオ(ファシスト組織、ファランへ党の創立者)という人物の生き様と死に様をマドリッドでたどり、最初は「正義」のはずだった人民戦線の変容をバルセロナでなぞる。どのようにして内乱が始まり、激化し、そして終わっていったのか。かつて太平洋戦争を経験し、安保闘争を闘った人間が、昭和五十年に再考する、スペイン内乱。人々の、そして自分の気持ちはどんなふうに変わってきたのか。明るい話ではないが、引き込まれて読むのがやめられない。

「私たちより若い人には意外であろうが、一九三〇年代の或る時期まで、大恐慌の波にもまれる多くの国において、ヒトラースターリンとはあまり区別されていなかった。恐慌、失業、貧困、飢餓から救い出してくれるのなら、誰でもよかった日本ばかりではなく、イギリスその他諸国でも、それは同じであった」

 ときどき、こんな記述も出てきて、今の世界情勢とまるきり同じではないか。平成29年に生きる私ははっとさせられる。そしてこの当時、ヒトラースターリンは違ったのだ、ということにも。

 

 そして、四十年前の価値観を持ってスペインにやってきて、それがあっさりと覆されて、持っていた価値観はとっくに蒸発していることにショックを受ける。さらに四十年後にそれを読んでいる私は、当時との違いよりも、当時と驚くほど重なることが多いことにショックを受ける。歴史はめぐるというやつなのか。その歴史と一緒に、ただただ自分たちも回転するしかないのか。そんなふうにして、戦いのあとをたどりながら、さらにアンダルシア、セビリヤ、マラガと、スペイン各地を訪ね歩くのだ。

 

イグナシオ・ロヨラの壮絶な人生

 最後は、カトリック信者にとっての聖地、イエズス会の創始者、イグナシオ・ロヨラが生まれたサン・セバスティアンに向かう。氏はカトリック信者ではないが、かつて出会ったドイツ人のイエズス会士との縁が忘れられず、どうしてもここに来てみたかったのだと言う。このドイツ人とふたりで「カトリック大辞典」を日本語に訳した思い出が綴られ、もちろんこれもおもしろい。クラウスが熱心に氏にカトリック信者になれ、と誘い、日々お互いの距離を縮めようと努力し、氏は頑なに拒否し、距離を開ける。しかし仕事もあるので、つきあいは続く。

 さらに、イグナシオが著した世界三大奇書のひとつ----しかし、ほかの2冊のことは知らない、とか----「心霊修行」のことも詳しく書き、カトリック信者の信仰の有り様も、体感させられる。なにせこの本、心を鍛えて見えないものを見る、大雑把に言うとそういうものなのだが、まず最初の修行というのが、想像力の限りを使って地獄を見る(思い描くのではなく!)というものなのだ。氏は最後までカトリック信者にはならなかったが、しかしこのイエズス会の信仰の念力というか凄まじさには惹かれていて----クラウスのなんともいえない実直な人柄のせいもあるのだろう----、これを熱心に探っていく。決して山里奥深くに隠遁して修行したりするのではなく、現実の世界に身を置いて、そこで神の世界を見ようという姿勢にも好感を持っていたようだ。

 

 イグナシオの生まれ故郷、ロヨラ村を訪ねながら、イグナシオの人生も語ってくれる。これがまた、ページを繰る手が止まるほど驚きの内容で、この分厚い本がもうすぐ終わろうというときに、こんな爆弾を…と思わず苦笑が漏れたほど。常人には想像もできない彼の「忍耐につぐ忍耐」の人生を読みすすむにつれ、宗教家が見る世界が、なんとなく体感できもする。ああ、人はこうしてもうひとつの世界を信じて、そこに没入して、確信と幸福を得るのか…と。そして、スペイン各地をめぐる氏の旅にイグナシオのスペイン行脚も重なり、読んでいるこちらの頭のなかも、まだ見ぬスペインの風景でいっぱいになるという仕組みだ。

 

 鮮やかな風景、生々しい心情、そして出来事。よくもこんなに詳細に書けるものだなあ、と読んでいる間、ずっと感じていたのだが、あとがきを読むと、「ただ骨休みのつもりで旅に出ただけで」「旅行記を書く気などまったくなく」、なのに帰国そうそう、「文藝春秋」の編集長が訪ねてきて時差に苦しむ氏に向かって「旅行記を書け、今すぐ書け、と言う」ので、仕方なく記憶を探りながら書いたものだという。ふーむ。人は目を見開いて生きていれば、ここまでちゃんと記憶に残しておけるものなのか? いや、やはりそういう問題ではなく単なる個体差なのか? 日々すべてを忘却していく自分を振り返らざるを得ない……。

 そして、読み終わってつくづく思うことは、内部にたくさんのものをためた人間が旅すると、こんなに充実したものになるのだということ。これまでに見てきたもの、聞いてきたこと、考えてきたこと、それらが新しい土地の新しい風景と混じり合い、また新しい記憶が生まれる。忘れていたことを思い出す。昔に感じたことは新しく塗り替えられる。そして新しい好奇心が生まれる。

 

 ちなみに、本書で最も実用的だったくだりは

 

「ラテン・アメリカに入って、私が最初に覚えたスペイン語は「有難う」と「便所は何処ですか」であった。新しい国へ入った場合、何を措いても、この言葉だけは先ずは覚えておかねばならぬ。他の事柄と違って、手真似や身振りで聞くわけにはいかないから」

 

  である。あっ、その通り!と思って私は出発前に一生懸命このフレーズを覚えた。

 

Donde esta servicio? ドンデスタ、セルビシオ?