独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

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ホップ酵母が酸っぱくなったとき

ホップ、酸っぱくなる!

 手間のかからない、いつも膨らむ優秀なホップ種だがいちど、猛烈にすっぱくなったことがある。これは大変だった。どんだけ検索しても原因も解決法もわからなくて。何度やっても酸っぱい。一から起こし直しても、酸っぱい。今まで2年間、なんともなかったのになぜ突然?

 でもあるとき作業工程を見直して、思い当たった。

 酵母は作ってからヨーグルトメーカーの保温器でくるみ、(27度保温)48時間保温、と本には書いてある。だが、実際酵母は、保温開始後数時間でぶくぶくわいてくる。夏場、はやいと4時間くらいで1.5倍くらいにまでなる。その後、膨らみはおさまるが、きゅうきゅう鳴き続ける。これってつまり、4時間程度で酵母は生れてるということだよね? でも本にある指定時間の通り保温していた。

 これが、もしかして長すぎるのかも?

 試しに18時間でやめてみた。4時間で酵母できてるんだから、発酵&熟成(?)時間入れてもこれくらいとれば充分でしょ、という仮定のもとに。そしたら、酸っぱくなかった。おおおっ。パンを焼いてみたらちゃんと焼けた。うわお! 酸味ゼロ。イエス! イエス!!  私は拳をあげた。これだった。時間だった。長すぎたのだ!

 PH計の数字も無事、志賀先生のいう3.8~4.2の間におさまった(そう、こんなものまで買ったのですよ…酸っぱいのが恐くて。本気で焼く方にはおすすめです)。

酸っぱいのは勘弁だが、必要最低限の酸味がなければ雑菌を倒してくれない。なので、この数字はきちんと守らなければいけないのです。

 

材料と便利な道具

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乾燥ホップ

 一回に少量しか使わないので、できればもっと小さいサイズが欲しいのですが…。でもオーガニックだし、まあいいか。

 保存方法は、買ったら当面使うぶんを瓶に入れて冷凍庫で保存し、残りは真空パックして冷蔵庫に。

 余談ですが、ホップ種を煮出すと、とんでもなく臭くて周囲の人に嫌がられます。しかし、買いたてで開けたてのその1回目だけは、とてもいい香りがします。つまり、あの匂いは劣化してるということか!?と思って、冷凍したり真空にしたりして保存するようにしたのですが、どれだけがんばっても、二回目からはもうあの臭い匂いしかかげませんでした。初回開封時から1週間しかたってなかったのに…。なぜだろう……。

 

 イワキ お酢ボトル 600ml

この容器、スーパー便利でぜひ紹介したかった。冷蔵庫のドアポケットに入る、目盛りがついているから別に計量しなくていい、注ぎ口がついているからできた種をそそぐときにスプーン等の道具不要。ガラス製で(割れる危険はあるけど)見た目が安っぽくなくて気分よし。…が、推薦理由。これを使うとすごく作業がスムーズです。

 

グローバル骨抜き

そう、本来は魚の骨抜きなのですが、私は茹でた芋の皮むきによく使います。その昔、料理家の有元葉子さんが、これでローストしたパプリカや茄子の皮をむくのが便利、と紹介していた。確かにめちゃ便利です。蒸したての芋は熱くて触れないので、左手の箸やトングで芋をおさえ、右手でこれを使って皮むきします。簡単にはがれます!

 

ゴムベラ

100均のゴムベラ。使えます! ヨーグルトやジャムをかきだしたり、バゲットなど、こねないパンのパン生地を混ぜ合わせたり、そして酵母をまぜたり。芋入りのホップ酵母は粘度のある液体なので、瓶のまわりにかなりはりつく。なので、かき混ぜるときにはこんなゴムベラだと、掃除しながら混ぜられておすすめです。この細さが抜群に使いやすくて、毎日大活躍してくれるので、うちには6本くらいあります。劣化したときのために(あんまりしないけど)3本買い置きもある。もちろん耐熱。優秀すぎ。

 

PH(ペーハー計)

液体の酸度を計るもので、本来は熱帯魚飼育で使うものです。瞬時に計測できず、しばらく液体にさしておかないといけないのが難ですが、それ以外は便利に使っています。ホップ種の理想の酸度はPHは3.8~4.2。いつも味見して、よい状態の種がどんな味なのか、把握しておくことも大事です。

 

くるみちゃん

 

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カスピ海ヨーグルトメーカー用で、保温したいものを巻いて温めます。温度設定はなく、27度オンリー。しかし酵母とパンの発酵に大活躍してくれます。酵母の容器や、パン生地を入れたボウルやタッパー(1~2斤)を包むのにちょうどいいサイズなのです。幅がたりなくてついているマジックテープがとまらなかったら、太い輪ゴムを使えばだいたいまとまります。くるくるたたんでしまえるところ、買いやすい価格もありがたい。

にんじんは…

青天の霹靂はないけれど

あけましておめでとうございます。

数年ぶりに、年始年末、家でごろごろ。騒がしすぎるテレビとか、からっとした冬晴れとか、枝ばかりになってしまった木々、曜日の感覚が消えて、時間がだらだらとすぎていく感じとか、正月っていつでも同じなのだな、とうれしいです。

今年はなにが起きるかなあ⁉︎と無意味にわくわくしていた時代は過ぎ、

もうすぐやってくる誕生日、そしてその後の人生を思うと、けっこう暗い気持ちになりますが、それはそれとして、でもできることをやろうではないか、とごく普通に考えたりもします。奇跡とか青天の霹靂とか、まさかの展開などは期待できない。できそうもないことは、たぶんもうできない。

 でもまあ、そっからが勝負です。

これしか持ってないけど、それでなにを、どうつくっていこうか。

それを考えて、あれやこれやと試行錯誤することは、きっと楽しいし、希望にもなる。

徒労になることも多いだろう。でも、日々の積み重ねが実って小さな達成感を得られることだって、たまにはあるだろう。

 そんなことに一喜一憂せずに、よっしゃよっしゃ、と自分を眺め、肩たたきながら暮らしていこうと思います。

 そして、もう10年くらい連絡をとっていなかった友人に手紙を書こうと思います。

なんだかふとそんな気になりました。

以上、2017年元旦のことば。

 

がっつり火入れで青臭さを消す、と思っていたけれど

次から、ブログ。

正月だからといって、取り立ててスペシャルなねたがあるわけでもなく、昨日、大晦日に何十年ぶりかに聴いた松田聖子について、いろいろ思ったり書きたいと思ったのだが、倉庫にあるか捨ててしまったか不明の(ひどい。愛聴盤だったのに)数々のLPが発掘できず、写真が撮れないので、またいつか。とくにすごいねたでもないのですが。

 ところで、にんじんですが。

「にんじんは殺さなければいけない」というのが、この年始年末に痛感したこと。

ポタージュにするにしてもソテーにするにしても、にんじん、美味しいけれど、どうしても青臭さが消えないときがあって、なんとかならないかなあと思っていた。

とことん煮るとか、じっくりじっくりソテー、とか、要するにがっつりと火を入れるしかない、あとはハーブだのスパイスだのあとは牛乳、にんにく等で青臭さを覆い隠すしかないと思っていた。それでも、隠しきれないことも多かった。

 でも最近、要は、火入れがたりなかった、らしいと気づいた。「殺しきれて」いなかったらしいのです。

 ポタージュの記事でも書いた「ル・マンジュ・トゥー」の谷昇シェフいわく。

「かぼちゃは煮崩れてペースト状になるくらいまで、しっかりとソテーすることで自然の甘みとこくが充分に引き出されてくる。ぼくはこの充分な炒めのことを“炒め殺す”と言っています」とおっしゃっているのだが、これはにんじんにも言えるのではないだろうか、と思ったのだ。(→よく読んだら、にんじんスープもこれで作ります、と文末に書いてあった…)

 というのは、まず今月の「料理通信」2016年10月号に載っていたにんじんのソテー。和歌山の「イ・ボローニャ」という店のメニュー。最初にまるごと20分以上茹でて、それから輪切りにして、じっくりじっくり揚げ炒め。「もういいかなと思った、さらにその先の火入れ」で劇的においしくなる、という。

そうか、今までじっくり煮たつもりでいたけど、私は全然足りなかったんだ。だから青臭かったのだ。

実際、レシピ通りに作ったら、とろりと甘くて青臭さは微塵もなかった。

 

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⇧クリスマス&結婚記念日ディナーにて、「“その先の”にんじんソテー」にトライ。イタリアンパセリはなかったので、香菜を散らしたら、妙にあって美味しかった。

 

そして、ジュース用無農薬にんじんを、まちがってだぶって2か月分注文してしまったため、消費もかねてにんじんケーキを作ることにしたのだが。

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⇧レシピにはないけど、にんじんケーキには、クリームチーズにメープルシロップをまぜたクリームを必ず。

 

いつも作るのとは違うレシピも試してみようと、徳永久美子さん「パンとお菓子の本」(最近こればっか…)から。このレシピの特徴は、アーモンドパウダーがかなり多いこと、粉は全て全粒粉であること、そしてにんじんを蒸してから使うこと!

キャロットケーキやマフィンの類では、ほぼだいたいにんじんはスライサーですりおろして使う。あんな青臭いもの、生でいいのだろうかといぶかりつつ、蒸すのはめんどくさいのですりおろして作っていた。ケーキにすると青臭くはなく、生でもいいんだなあ、などと思っていたのだが、せっかくだからここは言われる通り、火を通してみた。オーブンを使っていたので、ついでということで、アルミホイルでつつんで放り込み、石焼風にロースト。

 完全無欠に殺した。3回は死んでると思う。…と言えるほど、とことんオーブンに入れて、ほくほくとろとろになったにんじんで作った。フォークで押すとあっというまにペースト状になる。全粒粉はパン用の強力粉タイプが大量に賞味期限寸前で、これを使うために、2/3は全粒粉、1/3は限りなくグルテンの少ない薄力粉「特宝笠」にしてみた。全部強力全粒粉にしたらとんでもなく重いケーキになりそうで…。さらに書いてなかったけど、ピーカンナッツを入れ、アーモンドパウダーの1/3はパウダーでなくスライスをローストしたものを。ざっくざっくナッツの風味のするものにしたかったので。

 けっこうおっかなびっくり作ったのだが、これがあまりにおいしくて、「うわ!」と声が出た。今までのにんじんケーキとは段違いにおいしい。殺したにんじんのせいなのか、大量のアーモンドのせいなのか、全粒粉のせいなのかは正確にはわからないのだが、とにかくものすごくうまい。でもたぶん、にんじんのおいしさ。

 キャロットケーキは私にとって、おいしいけど、ごくたまに食べる程度で、騒ぐほどのものでもないと思っていた。正直今の今まで、なんでにんじんをケーキにしなきゃいけないのだろう?と、疑問だった。もっと言うと、貧乏くささすら感じていた。でもこれを作ってはっきりと、「おいしいから作ったのだ」とわかった。決して収穫しすぎたものを消費するためとか、安上がりに手近な野菜でお菓子を作るためとかではないのだ。

 そして、にんじんは殺してはじめて生きるのだ、とも強く強く確信し、新年を迎えたのです。

「やっているつもり」で実際は「やれてない」。そんなことが、自分の周りにどれだけあるのだろう。いろんなこと、見逃したりやり逃したりしるんだろうなあ。

でも、もう違うぞ。

2017年はいままでと違う景色が見えると思う。きっと。

 

 …朝のジュースに使うにんじんは生ですけどね。まあ、そこは臨機応変に。

 

 

ポタージュ、本日の正解

玉ねぎは基本で、コンソメは入れたくないけど云々。

ポタージュに作り方についていつも悩んできた。

玉ねぎをみじん切りにして蒸らし炒めして甘みを出し、メイン食材を加えてさっと炒め、ひたひたより少なめの水でとろとろになるまで煮て、ミキサーにかけてペースト状にして、牛乳を加えて温め、調味。

 これがいちばんシンプルな作り方で、でも、やっぱりもっとパンチが欲しいなあ、と思うと顆粒コンソメを加えたりする。加えると、パンチが出るけど、やっぱりちょっと俗っぽい味になって、うーん、やっぱりこうゆうものに頼ったらあかんのか…と後悔したり。

 にんじんやかぼちゃの甘い素材がメインのときは、玉ねぎじゃなくて長ネギにしたり、というアレンジはありつつも、基本はこれだと思っていた。

 …ンがっ!(鉄腕DASH風…)

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 昨日、クリスマスだからとはりきって本を見て料理をしたら、そこに正解が載っていた。谷昇さんの「ビストロ仕立てのスープと煮込み」という本。たくさんのポタージュレシピが載っているのだが、この日はかぶにした。そしたらここでは、水とバターを薄切りにしたかぶをしっかり煮込んで、ペーストにして、(できれば濾して)、あとは牛乳とヨーグルトを加えて、調味するだけ。ただただ、かぶだけ!のレシピであった。

皮もむかず、煮る前のソテーすらしていない。鍋に水とバターとかぶを入れて煮込むだけ! 簡単すぎる。いいのか?

 

 この日はメインのブイヤベース作りで疲れはて、かぶペーストに牛乳とヨーグルトを加える元気がなく、今日はこのままでいいや、と食してみたら、あれ?おいしい。物足りなさなんて皆無。ややえぐみがなくはないけど、でもいつもの半分以下の手間で、同じくらい美味しい! なあんだ。

 …と思って翌日、レシピ通り牛乳とヨーグルトを加えた。ヨーグルトねえ…と思いながら。谷さんは「牛乳とヨーグルトでかぶのくせをやわらげます」と言っている。

 で、食べた。

 !!

 うっまい! 

 本当に、昨日のかぶだけのスープから癖やえぐみがぬけて、見事に垢抜けたおいしさに昇華されている!

 感動。これはすごい。長年、コンソメは入れるべきか否か、玉ねぎなのか長ネギなのか、やはりポロネギなのか?などと悩んでいたのは、完全に無駄だったのだ。

なにもしなくてこんなにおいしいなんて。そして、おいしいオリーブオイルと胡椒をふると、美味しさが倍増する。昔のやりかたで作っていたときは、オイルなんて見た目だけのものだよね?となんのありがたみも感じていなかったのだけど、このかぶスープにたらすと、しみじみとおいしくて、その必要性がくっきりと。もちろん胡椒も、大事な引きたて役だ。どれもちゃんと意味がある。

 

その後、本を熟読してみると、「野菜の繊細なおいしさを水とバターで煮出して、ピュレにして、そのままポタージュに仕立て」るのが、谷さんが作るポタージュの定番なのだとか。「生クリームや牛乳、ブイヨンの風味は抑え気味にして、野菜それぞれのおいしさをストレートに発揮させるようにしてい」と書いてある。

 だから、かぼちゃも+牛乳のみ。カリフラワーは+牛乳+臭みとりのためにコリアンダーを2粒! ブロッコリーにいたっては牛乳すら加えず。逆にコーンには玉ねぎを加え、きのこは+ブイヨン+牛乳…。と、素材によって臨機応変に材料を変えている。なるほど……。なによりも簡単だけど、同時に、なによりも繊細に考えらえたレシピなんである。

 

 谷さんといえば、ご自身のレストランの屋根裏で寝起きしていたシェフだ、たしか。家もあるし家族もいるけれど、仕事に集中するために店のすぐ上で寝ているんだったかと思う。お弟子さんもたくさんいるけど、毎日店のトイレを自らぴかぴかにしていた。便器を抱えるようにして、はいつくばって磨いていた姿、料理チャンネルの「フーディーズTV」のドキュメンタリー番組で拝見したのが忘れられない。そして、油で汚れたダスターかなにかを、ハイターにつけていたお弟子さんを怒鳴りつけていた。「油汚れは塩素じゃ落ちないんだよ!」。何年も前に観た番組だけど、これ、よく覚えている。あー、そうかも、なるほど…と思ったのと、あと、とにかくすごく怖かったので。

きょうの料理」に登場すると、とってもダンディで、にこにこしていて、でもすっごく繊細に、きちんと指導する。教えられることは全部教えますよ、でも必ずこの通りに作ってくださいね、なぜならば、そうしなければいけない理由があるからです。ルールを守ればとびきりの味になりますから。…と、そんな感じ。優しさと厳しさを見事に両立されていて、とにかく独特の存在感。

 この本も、そんなお人柄がそのまま現れていると思う。どんな作業がどんな効果を及ぼして、どんな味になるのか。谷さんは、どういうものをおいしいと感じているのか。そして、どうしたら素人でも極上の味にたどりつけるのか。それらが静かな情熱でひとつひとつ語られる。だから全ての皿が特別に思えて、ようし、ひとつひとつじっくり作ってってやろう、とやる気がわいてくる。きっと一皿作るたびに、今日みたいな発見に出会えるはず。

 

 たかがポタージュなんだが、なんだかすごい発見をした気分だ。大げさなのか? これも年のせい?

 まあいいや。うれしいことは多いほうがいい。発見だって、年とったらそうそうできるものではない。ここはひとつあえて、おおげさに喜んでさわいでみよう。

 

映画のフライヤーは捨てません

近頃の、親切すぎる予告編に反対だ

 映画館で観る、近日公開作の予告、あれほど楽しいものって、ちょっとなくないですか? 予告だけ観てると、ほとんどどんな映画も(いや、そうでもないか…)、傑作の予感がする。おいしいところだけつぎはぎして、期待感高めるナレーションが入り、そして、公開は来月…。もっのすごく観たくなる。

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 なので、映画館の楽しみは、本編+予告編なので、予告に15分くらいさいても構わない…などと思っていたのだが、そんなお楽しみにも近頃変化が。ここ数年、1本の予告がすごく長い。そして起承転結の起承転まで丁寧に語り尽くす予告が増えている。昔は起承、なんなら起の部分だけをじゃーん、と見せて、ではお楽しみ!てな感じだったと思うのだが、今って、すごく細かくあらすじ教えてくれるんですよね。誰かと誰かがこうやって知り合ったけど、男にはこんな秘密があって、女にはこんな性癖があって、ある日突然それが誤解されて、誰かが死んで云々。テレビの映画紹介コーナーなども同じだけど、「じゃあもう観なくていいか」と思わざるを得ない予告が多すぎる! 

 映画はなるべく、なんにも情報を入れないで観たい。だって、なるべく驚きたいから。そう考える人って、今は少数派なんでしょうか?

 誰が撮ってて、誰が出演してて、舞台はここ。そんな程度の、え?なになになに!?とわくわくする情報をちょっと欲しいだけなんだけど…。

 

かわりに、新作情報はフライヤーで

  だからもう、映画館の予告編はあんまり観ないようにしてる。そんな話を友人にしたら、

「え? じゃあ、次回作の情報はどうやって得るの?」と聞かれ、「チラシ」と私は答えました。チラシっていうか…フライヤー? チラシって言ったらもう恥ずかしいのかな。ではフライヤーで統一。映画を見終わると、フライヤーの棚に行き、めぼしいものをごっそりもって帰り、電車のなかで次観るものを検討する。これも楽しいのだけど、では観終わったあと、どうするのか。結構大量のフライヤー、捨てるのか。捨てると、観に行くの忘れがちだから大事にとっておく。でもとっておいたことも忘れて、結局、観に行かない。あーあ。

 

そして、そのフライヤーをブックカバーにする!

 そういうことが起こりがちですが、最近、このフライヤーを活用して、ブックカバーにすることにしました。貧乏くさく、かつ、メリット山盛りの素晴らしい活用法です。それは、あとで売りやすいよう、なるべくきれいに本を読むためと、観たい映画を覚えておけるようにと、すでに観てよかった映画を思い出してにまにまするため、そして、フライヤーさんの能力を最大限活かすため。

 厚く丈夫な紙で作られたフライヤーは、ブックカバーとしてなかなか優秀です。実は、近頃ネットで本を買ってばかりいるため、カバーがもらえない、というのが軽い悩みでした。チラシカバー(フライヤーカバーよりゴロがよい)を思いついたとき、これはいろんな方面の悩みを一度に解決する、素晴らしいアイデアなのでは、と自画自賛しました。

  風呂でも本を読むため、防水?くらいのつるつるの紙で作られたカバーはとてもありがたい。そして、毎日眺めていることで、「早く観に行かなくちゃ」と、その作品の存在を脳裏に刻むことができる。すでに観た、そしてとてもよかった映画の場合は、何度も思い出を反芻できて心の健康によい。そして、いつもなら1回、数十秒眺めただけで終わってしまうフライヤーのはかない命を、ブックカバーにすることで、数日~数週間、の充実した長い人生に変えることができる。

  

 なおよいのは、展覧会のフライヤー

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⇧2年くらい使ってるホドラーのカバー。いい絵だ。国立西洋美術館クラーナハ展は終了まであと1か月を切ってしまった。毎日本を眺めては、早くいかないととあせる。

 

 美術館の展覧会のフライヤーも同様です。こちらは大判のことも多いので、ハードカバーに活躍します。…あ、普通のB5(だよね?)の映画フライヤーでハードカバーを包むときは、2枚使います。セロテープで裏から貼ります! これもまた趣あってよいものです。

 展覧会のフライヤーは、いわゆる「名画」「名品」を全面的に打ち出していることが多いので、カバーとしても素敵なものに仕上がることが多いです。写真のフェルディナントホドラーは、あまりにもこの人の絵とこのフライヤーが好きで、一度読み終わっても捨てられず、もう何冊も使いまわして、結構ボロボロになってきました。

 チラシで工作するようになったら、いよいよ本格的なおばさんの始まりかなあ、とも思いますが、まあ、しょうがないね。おばさんだから。

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⇧1枚目の写真、背表紙を広げるとこんなん。「神聖なる一族24人の娘たち」はロシア映画。あまりにもかわいいカバーになってしまった。でも見逃したけど…。ドローンを使ったハイテク泥沼戦争映画、「アイ イン ザ スカイ」はドラマ『ブレイキングバッド』のジェシーが出ている、年内必視作品。これは見逃せない。超おもしろい、と噂です。

お菓子だって、ラ・トラです

“ただの”塩キャラメルビスケット

 

 また、「ただのクッキー」を作った。粉と砂糖とバターと牛乳(!)だけのレシピで、でも冷凍庫にキャラメルソースが残っていたので、入れてみた。

 

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 ↑キャラメルのせいか、いつもよりダークなブラウン。塩も多めに入れて、甘じょっぱく、普通で、なつかしくて、極上の味わい。よしよし、成功。

 もとのレシピは徳永久美子さんの「パンとお菓子の本」にある「花形ビスケット」。なによりこの田舎っぽい名前が可愛らしくて、たまらない。名前に惹かれて作ったといってもいい。徳永さんは、パリのブランジェリー「ポワラーヌ」のビスケットをイメージして作ったのだとか。「パンを焼いたあとの、熱の落ちたオーブンで焼いたような」、なので「少し硬めの歯ごたえ、焼きムラも少々。粉の味わいは上々」というこの素敵な一文も、焼成欲をかきたてる。

「パン屋のクッキー」だからか、200度で9分、という焼き菓子らしからぬ温度&時間設定だ。何度作ってもこの温度と時間ではうまくできないので、200度9分のあと、160~170度に落としてさらに10分くらい焼く。「まわりがきつね色、中は白っぽい」が、焼き上がりの目安なのだが、私の場合、これだと、どうにも「芯まで焼ききれてない」仕上がりになってしまうので、強引なくらい焼いてがっつりと火を通すのが好み。色は全面濃いきつね色でOK。

 

果てしない「焼き」の旅

 

 これは本当に好みだと思う。他の方のレシピでも、指示通りの色、温度、時間、見た目、では、自分には「焼き足りない」と思うことが多いのだ。風味は多少とんでもいい、かりっ、さくっ、と極上の食感が欲しい。好みの焼き加減は、ときかれたら「よく焼きで!」。なんなら、焦げたものさえ、わりとおいしいと思ってしまうしなあ…。

 昔、どこかのシェフが「なにより難しいのは“焼き”です」と言っていて、「そうなの? そんなに難しいかな?」などと思っていたが、こういう経験を重ねると、つくづくと「焼きって難しい~!」と思う。

 そもそも人によって正解が違うのだ。考えて見れば、ステーキだって3種類も焼き加減がある。だから自分の正解を探して、何通りも実験するしかない。表面はがりっと焼けて、でもなかはやや生っぽいほうがいいとか、表面も奥も同じような火通りがいいとか、「焼き方」にも何通りもある。しかも焼き上がり1時間後と、翌日と、3日後はそれぞれ味が変わる。すべての時間帯でおいしいと思える加減を探さなければならない。なかなか途方もない旅である。

 

バゲット以外もすごかった

 

 このクッキーに関しては、「徹底的に乾燥させる」で私の旅はほぼ終わったのでいいのだが、これがすごくおいしい(と自己申告)もうひとつの理由は、「ラ・トラディション・フランセーズ」という粉を使っているからだ。

 

 

 バゲットがうまいことで有名なビストロ「VIRON」で使っている粉。いわゆるフランスパン用粉、準強力粉である。最初は私もここのバゲットがどうにも好きで、家でも作ってみたくて粉を買った。バゲットはちっともうまくできないまま日が過ぎていったのだが、あるとき店のデザートの杏タルトを食べて、その台のうまさに衝撃を受けた。えー、なんでこんなにおいしいの!? ネットや本でいろいろ調べたら、「パンだけでなく菓子もこの粉で焼いている」という一文を発見。うちでもタルトや焼き菓子にこの粉を使うようになった。…なんだろう、味が濃い、としか言いようがないのだが、味が濃くて、しみじみとおいしさが舌に残るのだ。

 たまに普通の薄力粉のほうがいいなと思うものもあるが、だいたいの焼き菓子はおいしくできる。なかでもパート・シュクレ(タルトに使うクッキー生地)や、この花形ビスケット、ショートブレッドなんかは本当においしくできる。はっきり言って高い粉なのだが、「まあ、洋服買うよりは安い」と呪文を唱えて----この10年、なにか高いものを買うときはいつもこれを唱える----購入する。

 

 

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↑買うときはいつも大阪の「粉やの息子」さんで。安い。めっちゃ、いろんな粉がある。送料も安い。…が、その理由。「グリストミル」が1kg単位で変えたらあとはもう文句なし、なのだが……。

 

 

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↑昔、四苦八苦して構成を考えた栗のタルト。中も栗を茹でて生クリームと少量の砂糖であえたペーストを絞り、台とペーストの合間にはアクセントのラズベリージャムをしき、さらに苦闘を重ねて作った渋皮煮をのせ、キャラメリゼしたナッツをちらした、ぜいぜいはあはあ菓子。もういっぺん食べたいのだが、面倒すぎてもう作れない…。

 

 ちなみに、ラ・トラでのバゲット作りは、いまだに成功していません。

どうあがいても、たとえどんなに素敵なルックスに焼きあがっても、割って食べれば

落胆あるのみ。気泡みっちりのパンしかできないんです…。

映画「トスカーナの贋作」

倦怠した日常がSF になる

 男は著名なエッセイストで、女はその読者。ふとしたことで会って話をする機会があった。話していたら、いつのまにかふたりの会話は、倦怠期の恋人のようなそれになり、さらには結婚10年以上の夫婦のようなにもなり、それがあまりに自然で、本人たちもその嘘の設定を本気で生きるようになり……。 

 え、本当は夫婦だったの? いや、単なる“夫婦ごっこ”? パラレルワールド?SF映画なの? いや、女の方が狂ってて、男はそれにつきあってあげてるとか? もしかしてその逆か?

 アッバス・キアロスタミの「トスカーナの贋作」はとても不思議な映画だ。ありきたりな中年男女のひとときの逢瀬。本当にありきたりな、倦怠しきった男女の会話が街を練り歩きながら、えんえんと続く。インテリで、理屈っぽくて、情の薄い男。立派な中年で、子供も大きくて、でもそんな現実を受け入れがたく、痛いほどはしゃぐ典型的な“おばさん”の女。

 男と女って、世界中どこでも、いつの時代でも、同じような繰り言を交わし続けるのだなあ、としみじみ思わせる他愛のない会話が、妄想と現実をごっちゃにした世界の上で展開する、というちぐはぐ感がたまらない。景色はトスカーナの街角。

 初対面の男女が、会話をするうちに熟年夫婦のふりをし始める。こんな設定、無理がありすぎるだろうと思うだろう。突拍子もなさすぎて、どうやって物語に入ればいいのか、と思うだろう。

 でも、観ている側はごくごく自然に、ぶつぶつ言い合いながら歩く夫婦(らしきもの)に同化していく。そうそう、結局こういう男って、肝心なときに愛のなさが出ちゃうんだよ、とか。ああ、おばさん、ここでクールに構えていれば、男になめられないのになあ、とか。ふたりの力関係にはらはらするし、このデートがきちんと楽しく終われるのかも心配だし、そして、そもそもこのふたりは結局なんなの?というところで、実にスリリングに時間がすぎる。

あくまでもそっと控えめに、神業

 男の講演会と、それを聞きに来た読者の女という、ごく普通の始まりから、ゆっくりと、異世界にうつっていく、この無理のない変態が実に心地よくて、こんなの誰にでもできる技じゃないなあ、さすがだなあ、とうならされる。すごく新しいことを、“日常の倦怠=中年夫婦の会話”をツールとして語っていくのだ。これ、結構とんでもないことだと思うのだが、ツールが日常的だから、作品からわきたつ凄みは控えめ。これみよがしなところなど微塵もない。すごいなあ。

 控えめで、その実凄まじい、それと同時に、実に美しい作品でもある。オープニングは講演会の、まだ話者の現れない演壇。マイクと壁が写っているだけ。でも、色といい質感といい、惚れ惚れするくらい美しくて、おお、この映画は面白そうだなあと、わくわくした。オープニングで、わくわくできる映画はだいたいおもしろい。…というか、最初のショットで、自分好みの作品なのかどうかわかる。このショットを提示して、「これはこんなシーンが素敵だと思ってる人間が作った物語です。どうです?」と監督から言われているような気がする。賛成できれば、だいたい最後まで楽しめる。

 

 それはさておき、この監督特有の、鮮やかでないのに鮮やかな、としか言えない不思議な色あい、登場人物がカメラの真正面から語りかけてくる、どきっとするアップ、物語と人物をなんども咀嚼させるような、スローなテンポ。なのに、緊張を途切れさせない進行…それらが、しみじみと愛おしい気持ちを起こさせる。ここに現れる物語と人間、風景。その溢れ出てきた愛おしい気持ちは、自分の日常にまで流れ込んできて、乾きはじめていたこちらの毎日も潤す。これぞフィクションの効用。

「友だちのうちはどこ?」というのはこの監督の代表作だが、これも素晴らしい映画だった。小さな村の小学校で、友達がノートを忘れていることに気づく少年。その友達はこのノートで宿題をしないと、明日先生に殴られるのだ。あせった少年は、友達にノートを届けようとするのだが、肝心の家がわからない。あっちで聞き、こっちで尋ね…しかし、いつのまにか日が暮れてしまう。

 まるで紙芝居のような筋書きなのだが、モノクロの画面のなか、さみしい、(おそらく)貧しい小学校、村、ジグザグの丘、そこを走り回る少年が、もうかわいくてたまらない。いったいどうやって友だちのうちを見つけられるのか、ノートは無事届けられるのか。画面から目が離せない。これも、小さな、ごく控えめな物語なのに、観ている側に手に汗握らせてしまう、かつ、なんともいえない気持ちを爆発させる作品だった。神業だった。

 そんなキアロスタミ監督も、2016年の7月に亡くなってしまった。こんな物語を生み出せる人の心のなかには、どんなもので溢れていたのだろう。畏れ多いような気持ちで遠いイランの国を思ってみたりもするが、偶然みつけた今作のインタビューには、神がかったような言葉はひとつもなかった。

 

「全ての台詞は、僕が現実の人生で見聞きしたことに影響を受けている。いつかアメリカにいる姉がイランに来たとき、『あなたの映画を1本も見たことない』と言うものだから、母と妹も家に呼んでみんなで僕の『風が吹くまま』(第56回ベネチア国際映画祭審査員グランプリ受賞)の上映会をしたんだ。見始めて3、4分で母がウトウトし始めて、僕が台所でお茶を片付けて部屋に戻ったときにはみんな寝ていた。それで僕がテレビを消すと、突然みんなが起きて『何で消すんだ!』って叫ぶんだ。

『誰も見てないから消したんだ』っていじけたら、みんな『でもすごくおもしろかったよ』なんて言うんだ。『そんなこと言って寝てただろ! 好きじゃないならそう言えばいいのに!」って怒ったら、みんなで口をそろえて「好きだ、好きだ」と言い張る。頭にきた僕は、もういくら頼まれても見せてやらないと心に決めた。その翌日、姉が突然『あなた昔、子どもと車に乗ってるとき運転しながらウトウトしたでしょ? あなたは子供を愛してなかったって言うの?』って僕を責めてきた。『だってすごく眠かったんだ』と答えたら、『私も昨日すごく眠かったの!』と開き直られたんだ。

このできごとはウィリアムの台詞にそのまま活かされているよ。でもこの話はこうして役に立ったから、やっぱり居眠りしちゃうことは決してそんなにひどいことじゃないよね(笑)」

 実に普通な、俗っぽい一面が垣間見れて、驚いたと同時にすこしほっとした。それにしても、チャーミングな人だ。

 原題の直訳は「認証された贋作」。同インタビュー内ではさらに、「手に届かない本物より、身近にあるコピーを大切にしようと思った」とも言っている。確かに、これを観ると、本物ってなんだっけ? 偽物って悪いのか? 自分にとっての本物はどれなんだろう?と、考えさせられる。それはつまり、自分が当たり前のように信じていた価値観が揺さぶられているということだ。だから、この日常的な作品に、どきどきはらはらするのだろうか。

 

真性のおばさんになったジュリエット・ビノシュ

 主役のジュリエット・ビノシュは、同インタビューによると、「彼女が、僕の映画に出ると言い張った」のだとか。カンヌ映画祭で主演女優賞を受賞したのだが、それも納得のすごい演技を披露している。ありふれた中年女性そのものの、活力と熟れた色気、図々しいけどかわいらしい、愚かな繰り言を言い募りながら、突如真実を言い当てたりもする……愛らしさと醜さのシーソーゲームのような主人公を実に自然に演じている。

 若い頃からおばさんぽかったけど、本当のおばさんになったら魅力爆発、が私が思うジュリエット像。もちろん、「ポン・ヌフの恋人」の頃のような神々しい可愛さはもうない。目も小さく萎んで、肌もたるみ、シワも多い。けれど、それがとても自然で、堂々としていて、静かな確信に満ちていて、なんともいい顔なのだ。自分のしてきたことを愛して、糧にしている、そういう顔をしている。

 まあでも、実際に会ったら、びっくりするほどきれいなんだろうなあ。

なにも書いてないレシピと、なんでも書いてあるレシピ

レシピにはほとんどなにも書いてない

 

 お菓子の本って、なにも書いてないんだ。

 …と、強く強く思ったのは、本気でお菓子を作り始めて、しばらくたったあと。初めて作って大成功、というわけにはなかなかいかず、どんなレシピでも大概それなりに試行錯誤が必要だった。何度作ってもうまくいかず、その原因がわからず、そしてレシピ本にはその手がかりになるようなことは何も書いてない、ということがたくさんあった。どうしてこの生地はこんなにもろもろするんだろう。これじゃボール状に丸められない。どうしてこの生地はこんなに液状化するの? これじゃ絶対膨らまないに決まってる。オーブンから取り出すのはすごく膨らんだとき? 膨らんだあと? 溶かしバターを入れると絶対分離するけど、いいのかな? …等々。

 ひとつのお菓子を上手に作るためには、それこそ10も20もコツがあって----それらは製菓の基本のこともあるし、その菓子だけに限ったコツのこともある----、全部きちんと守ってようやくパーフェクトに出来上がる。でも、そのコツのほとんどはレシピには書いてない。あらゆる製菓本を読み込んで、ググって、ようやくコツらしきものを会得して、なんとかうまくできるようになる、ということを繰り返して思ったのは、冒頭の言葉だった。

「お菓子のレシピには、なにも書いてない。そう思って取り組むべきなのだ」。

 

いっぱい書いてあると、誰も読まない

  最初の頃は、「なんも書いてないやんか!」と腹を立てていたのだが、だんだん理解を示すようになった。

 昔、女性誌で料理ページを担当していたのだが、その最初の仕事のとき。張り切って、基本のレシピのほか、料理家の先生に聞いた話を箇条書きの「コツ」にまとめて担当編集に送った。もちろん、全部入るとは思っていなかったけど、少しでもたくさんコツを入れてあげたい、だって、これを知っていれば確実に成功率が上がるから、と思って。鍋は直径18cm以上が作りやすい、だとか、えびは下処理のあと、きっちりペーパーで水分を取っておくこと、とか、ブロッコリーは茹でると水分が房にたまるから、蒸したほうがいいとか、そんなこと。「どこかページのすみにでも、入れられませんか?」と添えて送ったのだが、結果は1個も採用されなかった。理由は「いろいろ書いてあると読者は読む気をなくし、作る気も起こさないから」だった。

 そうかー。そうなのねー。そういうものなのねー。私はとっても驚いた。コツなんかいいから、読みやすくして。そしたら作るから。という人が主流だったのだ。

 この経験がけっこう忘れられなくて、だから、世の中のお菓子本のほとんどが、すっかすかであることについては、あきらめた。いっぱい詰まってると作る気にならないんだからしょうがない、と。上手に作れる秘密はどんなことでも聞きたい、というような人間は少数派なのだと。

 

1から10まで全部教えてほしい

 

 なので、長い間私は、疑問にぶつかるとイライラしながらまずググり、それから分厚いパティシェ用の製菓本から家庭用のお菓子本までかたっぱしから、大型書店で立ち読み、もしくは大枚はたいて買って読み漁り、私の知りたいことの答えがどこかに書いてないか探し続けた。

 そして、その答えのひとつがこの本だった。「ケーキ この人、この店の定番」。ひとりのシェフが、ひとつの菓子について、徹底的に語りながら、レシピを開陳する。どうしてこんな作り方になったのか、どんな味を目指しているのか、これをやるとどんな差が出るのか、手の動かし方、OKサインの出すタイミング、焼き加減の見極め方。もうすべて、徹底的に書いてある。聞き手も相当製菓に詳しい方のようで(だって柴田書店だもんね)、その菓子が、レシピが、通常とはどう違うのか、なにが一番の特徴なのか等しっかり書き込んである。

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 しかもひとつのアイテムを、いろんなシェフ(店)が作り比べる(別に競ってるわけではないが)構成になっているので、プリンならプリン、シュークリームならシュークリームで、それぞれのレシピを熟読することで、シェフの好みはもちろん、そのアイテム自体の本質も見えてきやすい。

 例えば、ガトーショコラなら、メレンゲをどのくらいまで泡立てると、軽いけど食べごたえも残る味わいになるのか。壊れやすいメレンゲを、上手に混ぜ込む手つきはどんなものなのか。使うチョコレートを、あえて主流のダークではなくスイートにしているのはなぜなのか、そして、そもそもそのシェフは、ガトーショコラをどんなお菓子だととらえていて、どんな味わいを目指しているのかetc。どのシェフも微に入り細に渡り語り尽くしてくれて、もうありがたいったらありゃしない。何度も何度も、「なるほどね~!」と言いながら読み返した。そして作った。すべての行程になぜそうするのか、の理由が書いてあるから、「なぜこんな手間を?」と疑問に思いながら作業する、というよくある出来事も起こらない。「こんな本がもっとあればいいのになあ」とよく思ったものだ。

 私の理想のレシピ本は、たぶんこれなのだと思う。本格的なシェフの豪華本もこれに負けないくらい細かく書いてあって、それらも愛読させてもらっているのだが、この本は、聞き手がいて、そのシェフだけでなく、たくさんのシェフ、そしてお菓子の全体を見渡しながら原稿を書いているという点で抜きん出ていると思う(だいたいのレシピ本は、シェフのひとり語りになっている)。今までにない視点がたくさんあるのだ。

 

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⇧パティスリータダシヤナギのレシピでつくったガトーショコラ。これ以上なくシンプルで、よけいな味のしない極上のガトーショコラだと思う。生クリームがやや泡立てすぎなのは残念…。

生地といちごとクリームの一体化って?

 例えば「ア・ポワン」(閉店!)のフレジェ。聞き手は「生クリームとイチゴ、ジェノワーズが口のなかで溶けるように一緒になり、後口がいい」と評して、「生クリームがかなり多く仕込まれているのに、くどさがないのが不思議だ」と書いている。その秘密は、日本の製菓業界では定番の、乳脂肪40%台の生クリームではなく、35%を使っているからだ、とシェフは明かす。しかし35%ではさらさらしすぎて保型性がないので、粉末ゼラチンの一種をほんのすこし加えて硬さを出しているのだとか。同時に濃厚さもほしいから、上にのせるクリームは47%を使っている。

 しかも、このあとには、聞き手の感心した「一体感」を作り出すための、驚くべき技まで披露してくれている。なんと、ジェノワーズ(スポンジ生地)にいちごとクリームをはさんだ後、-2℃の鮮度保持庫に入れ時間をおき、いちごとクリームから適度に離水させることで、生地と一体化するという!

 どうして私がこんなに驚いているのかというと、それまで私は、クリームや果物から水が出る“離水”は製菓にとって、味を水っぽく、薄くするだけの「悪」だと信じていたから。ロールケーキやショートケーキが、作って半日〜1日くらいたったほうがなじんでおいしい、というのをわかっていたけど、そのためにわざわざ鮮度保管庫に入れて離水させる、というのはやっぱり驚きだ。そうか、そもそも「なじんでおいしい」というのは、あれは離水のなせる技なのかあ、としみじみ納得。いや、ほんと、勉強になります。製菓学校や製菓業界ではあたりまえのことなのかな?

 話はそれたが、とにかくこの本は、(例えば)ショートケーキとはどういうお菓子なのか? どう作るべきなのか? シェフはその定番についてどう考えているのか? 聞き手を立てることで、ひとり語りでは語りきれないものが引き出せていると思う。

 

バイブルよさらば?

  そして、この本をこんなにも愛読しつつも、でも、同時に、自分は卒業なのかもなあ、とも思い始めている。「すべてを教えてくれる本を探す」というやり方が、そもそも間違ってたのかも?と近頃つくづく思うからだ。

 レシピにはなにも書いてない。だから素人は、作る→失敗する→再挑戦を数回繰り返し、それでもだめなら自分で新しいやり方の仮説をたてる→再挑戦をするしかない。それをやってこそ、自分の手でいろんな発見ができるし、新しい味にも出会える。

 でも、私は頭が悪かったから、自分で仮説をたててがんがん試作する、ということができなかった。料理ならまだしも、お菓子って、絶対言われた通りに作らないといけないという強い思い込みがあった。たとえどこにも指示がなくても。だから、「生地がもろもろしすぎていて、ボール状に固められない」と困っていたクッキーは、「もろもろしなくなって、握りやすくなるまでこねればいい」というごく簡単な答えに辿りつくのに、なんと7年もかかった。

 長い間、困りながらこのクッキーを作り続けていて(すごくおいしいのだ、小嶋ルミさんの「ピーカンボール」)、ある日フードプロセッサーをいつもより長くかけすぎて、気づいた。生地がしっとりして、つながって、簡単にボール状になる。つまり私は、「さくさく感を出すだめにこねすぎは絶対にNG」というクッキー界の掟を守りすぎていたのである。プロセッサーを回して、生地とバターと砂糖が混ざり、サラサラしている状態でもうやめ。とにかくサラサラしてないと駄目。それを頑なに守っていたので、そりゃ団子にはできないですよね。「もうちょっと回してみてもいいのでは?」ということすら、全く思いつかなかったのである。うーん。

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⇧ピーカンボール。粉糖にゲランドの塩を混ぜてあまじょっぱくしたら、さらにおいしくなった。 誰にあげても喜ばれる鉄板メニュー。

 

 そもそも最初に作ったのが小嶋ルミさんの本で、選んだ理由が、「指示がめちゃくちゃ細かい。手軽には作れない。でもすっごくおいしい」と評判だったから。気合をいれて、面倒なこと山ほどして、すっごくおいしいお菓子を作りたい、と思ったのだ。当時は15年くらい続けていたフリーランスのライターの仕事も、好きで住んでいたはずの東京M市にも、心底飽きていた。なにか新しいことがしたかったのだろう。

 やりがいのある大仕事がしたかった。だから、指示が細ければ細かいほど、ありがたかった。なにもかも、全て書いてあるのだと思いこんでいた。書いてあることはきっちりやりますから、おいしいのできてくださいね、という感じだった。実際、小嶋さんの本は普通のレシピ本の3倍くらい情報量がある。それでも、作ってみると、「それでこれはどうなってるの? どうしたらいいの?」ということがたくさんでてきた。そうなるともうお手上げだ。

 そのときに、失敗したっていいや、と、思いついたことなんでもやってみるという精神があればぐんぐん上達したのだろうが、当時の私は「指示通り」という概念に縛られていたから、独自のやり方を追求する気なんてさらさらなかった。ただただ、「どうして?」と思いながら本の通りに何度も作り、毎回同じトラブルにぶちあたり、迷いのあるお菓子を焼いていただけ。その合間、片っ端から製菓本をあさって、答えを探していた。どんぴしゃな答えが見つかるときもあったし、全然ないこともあった。

 

べつに「お墨付き」の味にならなくてもいい

  私は1年半前に鬱がなおった。視力がよくなったような気分の今では、このバイブルはいったんしまってもいいのかもなと思っている。いや、またプリン作ろうと思ってるからしまわないけど、こればかり崇めなくてもいいのかなと。

  今だからこそ、昔の自分が本当に応用のきかない、いろんなことにがんじがらめだったことがよくわかる。まさしく鬱病の典型だった。融通がきかなくて、深刻で、だからオプション(選択肢)を作ることを許さない。すべてに行き渡ったレシピがないと、菓子のひとつも作れない自分。このありがたい本も、そんな私を助けてはくれるが、成長はさせてくれない。

 何度作っても失敗してしまうなら、思いつきで、どんどんいろんなやり方を試して食べて、発見すればいいのである。そして自分の好きな味を作っていけばいいのである。べつに「お墨付き」のお菓子を作らなくてもいいのだ。まずくてもいいから、新しい味を作って、それを面白がってみよう。そしてそれが美味しくなるように(これ大事)、仮説をたてて何度も作って、試行錯誤しよう。そういう姿勢が、たぶん私には必要。

 そんなふうに向かえるようになれば、例えば「プリン作りたいな。ああでもあのレシピでは生クリームがいるんだった。ないか。じゃ、やめ」なんて思わなくなる。「ためしに牛乳だけで作ってみるか」ってなる。

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 ⇧で、作ってみた。生クリームを入れず、そのぶん牛乳で補って。味が薄くなるだろうなあと覚悟してたけど、ならなかった。なぜ? 生クリームなくても全っ然!おいしい。しかも、いつも指定通りに焼いてもしゃばしゃばで固まらず、時間と温度に苦労していたのだが、この日ついにベストタイム&温度を発見。それは140度(うちのオーブンはミーレです)で25分プラス!余熱10分、だった。なんのことはない、タイマー鳴っても手が離せず、10分放置していたら、今まででいちばんなめらかな出来になったというだけのことなのだが。

後半戦は、「当たり前のこと」をひとつひとつ確認

 答えは自分以外の誰か、偉い人が知っていると思っていた。昔は。そんで、答えはひとつしかないとも思っていた。無自覚だったけど。自分で、自分なりの答えを作ってみようと思えなかった。こういう姿勢は、製菓だけでなく当然、すべてに及ぶ。私は仕事の仕方、選びかた、家事の仕方、健康法、旦那や友達とのつきあいかた、そして人生の捉え方まで、ぜんぶ、どこかに正しい答えがあって、それをただ探していた。ひたすらに。同時に、自分独自の思いつきは、くだらなくてしょうもないことだとも思っていた。

 私は今、一時的に仕事をしていなくて、これからどうするか2つ3つ、選択肢があるのだが、正直言って、どちらを選んでいいかわからない。毎日考えてるけど、わからない。誰か、物事をなんでもきっぱり言い切る人に「そんなの決まってるでしょ」と断言してほしい、と心の底から思う。毎日思ってる。でも誰もしてくれない。好きにしていいのだ、と思うと、気が滅入る。

 

 でもまあ、自分の答えは自分で作れば?と思えただけ、進歩なのかもしれない。こんなことは当たり前のことだ。「モノが見えてる人」には十代からわかっていることだろう。でも私は「見えてない人」だから、中高年とか言われる年になってようやくわかった。恥ずかしながら。

「人生には試してやってみる、ということができない。なぜならば人生は一回きりだから」という一文があったのは、M・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」(正確な引用じゃなくてすみません)。試して、失敗する可能性も高い。でもそんなのしょうがないのだ、だってやり直しはできず、人生はいつも初挑戦で、お菓子みたいに何度も作ることはできない。それならば、失敗を敗残者の烙印ではなく、「単なる経験のひとつ」と思うしかない。そのほうが楽しい。

 年をとると、「世間でよく言われてること」がしみじみ、「ほんとだなあ~」と思うものなのだが、これもそのひとつだ。「病気になると健康のありがたみがわかるよね」とか「年をとると日々があっという間に過ぎるね」とか「枯れても紅葉して美しいなんて、葉っぱって偉いね」とか「天気がいいと気分がいいね」とか「人生は一回きりだね」とか、そんな「当たり前」で「昔から言われ続けてること」。未熟者の私は近頃、こういう「当たり前なこと」をひとつひとつ、おなかの底から確認していくことが、人生後半戦のテーマなのかしら、と思ったりしている。確認して、そして、ごくありきたりで、それなりに充実感も感じられる一生だったな、と思いながら死んでいくのだろう。