9月11日
曇りのち雨
29℃
生ハム&サルサプレート
とくに言うことがない…。バランスのよいプレートではないだろうか。目玉焼きを満足いくように焼くのは案外難しい。サルサと生ハムはすごく合う。…ということくらいか。そしていいかげん、サルサの玉ねぎは今の1/3くらいの大きさに切らなければ。なにしろ不器用、めんどくさがり。しかし今更ではあるけれど、もうちょっと丁寧に野菜を切ろうと最近心を決めたのである。
不器用でだらしなく、適当だけれど、やはりきちんと生活しよう、とこの十年がんばっていて、前はしなかったさまざまなことを習慣化しつつあり、毎朝「めんどくさい…やるべきことが多すぎる」と唸りながら起きている。しかし、実際はたいした仕事ではないのでだいたいなんとかやりおおせて、充実感にひたる。…という繰り返しなのだが、年をとるとこういうことがだんだんできなくなるという。だんだんできなくなって、終いには全然できなくなる。鴻上尚史は「いままで自分を厳しく律してきた人、きちんと(仕事や生活全般)やってきた人ほど、老いはつらく感じるでしょう(大意)」と書いていた。うわー、そうか。そうだよな。いや、そうじゃないかな、と思っていたよ! これはつまり、がんばってがんばって努力を積み重ねて、なんとか「きちんと生活している人」になったとしても、結局最後は努力してない人の何倍も絶望するっていう話なのか! 人生ってそういうものなのか!
この問いはだいぶ前に出ていたけれど、今だに回答はない。せいぜい、健康に気をつかって、「なにもできなくなる日」を先延ばしにするしかない。
「健康に気をつかう」って、「一分一秒でも長生きしたい」という意味ではない。よくあれこれしている人に「そんなに長生きしたいのかよ」とか言うけれども。私も夫に「なんでそんなに? あんたはやく死にたいんでしょ」などと言われるけれども。
そうじゃなくて、「元気でいたい」のである。なぜならば元気でないと、人生すべてが面倒くさくてつらいから。日を過ごすのがとんでもなくしんどいから。「あ、ちょっと今日はあれやろうかな」「これも片付けるかあ!」「おなかすいた、なに食べようか
」という気持ちは元気でないと湧いてこない。そしてこの「元気」が、無気力な中年どまんなかの私場合、あらゆる努力をしてようやく捻り出せるものなのである。だからなるべく熟睡しようとするし、運動もするし、おなかが快適な食事を追求する。楽しいと思えることを必死で探す。
というわけで、今日も私はいろいろする。9月の終わり、ようやく涼しくなって、安眠を取り戻し、夏が終わった安堵からくる秋バテ? 非常な脱力感を感じつつ、ああ、もうすぐ元気になれる、元気になったらなにをしようか、とぼんやりとわくわくしているのが今である。
運動
夕方、ランニング