独楽ログ〜こまログ〜

50代、女性、日本人、がひとりで毎日楽しくすごす方法を検証、実践、そして記録。

MENU

こなログ 塩昆布トーストと、三島由紀夫と橋本治

6月6日(火)

曇り

25℃

 

塩昆布トースト

塩昆布、はじめてパンに載せた

 チーズとドライトマトと、塩昆布。簡単でおいしくていい。

 

三島由紀夫とは何者だったのか』橋本治著 (新潮社)

 

そういえば、なんであんなことを?

 Amazon prime  『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実を観る』というドキュメンタリーを見かけて、いつか見ようかなあ、などと思いつつ放置していたのだが、ふと、そういえば自分は三島由紀夫が動いてしゃべってるとこ、見たことないかも? と。そこから今更ながら「なんであの人、あんなこと(市ヶ谷駐屯地で切腹)したんだろう?」と思ってしまった。その昔「三島由紀夫という人がいてこうやって死んだ」と聞いた時は、「は?」と思ってそのまま思考停止してしまった。あまりにも素っ頓狂な事件でどこからどう理解していいかわからなかったのである。その後三島由紀夫の小説は結構読んだにも関わらず(ほぼ覚えていない)。まあ、好奇心とか探究心が薄かったんだろうなあ…。それが突如、好奇心が降ってわいた。

 

www.youtube.com

 これですべてわかるわけもないのだが、三島由紀夫が当時どれだけスターだったのか、そしてそんなスターなのに、年若い秀才の若者たちをばかにすることなく真摯に共闘を呼びかけて、そして彼らに冷笑されて終わった、ということはわかった。なんだかせつなかった。そしてこの映像のなかのインタビューで、「人は精神をおかしくなったことだけが自死の理由ではない、意思を持って死ぬこともあるのだと証明したい(大意)」とも言っていて、ここ数年「自殺する人は100%、精神が病んでいる人」という言説を信じていたもので、「あっ」と思ったのである。「そうじゃない人がいる」。

 もちろん、切腹したときの彼の精神状態が厳密にどうだったのかはわからない。でも『仮面の告白』を読み直すと、彼が自分のも他人のも、異様に死に対して美を見出しているらしいことはわかった。十代の彼自身を思われる主人公は、好きな人が血を流して倒れている姿を思い描いてぞくぞくしている。少なくとも、「どんな姿、生き様になろうと生き抜いてこの世がどうなっていくかを見てやる」的な意思はなさそうだ。三島は自分の人生を自分の”意思”通りに形作ることを夢見ていた。

 

橋本治本と出会う

 その後橋本治の上記の本を読んでみた。脱線するけれど、最近中野図書館には「予約本棚」という棚が設けられていて、予約した本は1週間そこに置いておくから勝手に借りてってね、という労働効率化システムを採用している。前はスタッフが対応し毎回奥に取りにいっていたが、コロナで人と触れ合ってはいけなくなったので(!)こうなったのである。なのでその棚には人の予約した本が並んでるわけで、「図書館って読みたい本はだいたい借りられてるから、おいしい本は棚には並ばない」と思っている私にはお宝の山に見えた。さっと眺めるだけで「あっ、あの本が!」「なにこれおもしろそう」と興奮する。ウェイティングリスト68人、みたいな本もさりげなくいたりする。ちょっと立ち読みさせてもらったりして…。

 橋本治のこの本もその一冊で、「あっ、三島由紀夫本! こんなのあったんだ!」とびりびり来て即予約。もちろん今予約してる人が読み終わるのを待たなければいけない。しかしウェイティングリストは私ひとりだったのですぐ借りられた。待ってる間に売ったと思っていたがまだ家にあった『仮面の告白』を読んだ。若者の自意識と美意識に窒息させられそうな本であった…。あまりにも「自分」の話ばかりで息苦しすぎて途中でやめようと思ったのだが(こういう本って十代にしか読めない)、後半、太平洋戦争が激化するにつれおもしろくなってきたので(三島は昭和元年生まれで、終戦のときは二十歳だった)、どうにか最後まで読み切った。最後、「意思の力で」つきあっていた女性と最後のデートをしていて、盛り場のダンス場へ行くシーンはなかなかすごかった。まさに映画を観ているように音楽や踊り狂う若者が浮かんできて、そういえばこの人は戯曲もいっぱい書いてたと思い出す。

 橋本治という人は、私はほとんど通らなかった人で”桃尻語訳”などで一斉を風靡したのだが、全然興味わかなかった。いや、何度か思ったのだが、手に取るまでにはいかなかった。しかし桃尻語訳は高校生くらいだから三十年以上前の話だ。ようやく本当に出会ったのか…みたいな感慨がある。

 で、前置きが長すぎたが、肝心の本。これが、かなりおもしろかった。なにより橋本氏が三島由紀夫にとくに愛着がないのがよい。まず最初に「三島邸にあるアポロン像、実物はわりとちゃちぃ」という話から始めていているのである。面白いじゃないか…。三島由紀夫という人は時代の大スターで悲劇的(だよね?)な死を遂げた人でもあるが、同時に庭にアポロン像を立てて、その脇のサンデッキで裸で寝転がる自分を撮らせる冗談みたいな人でもあり、本人はそういうメタ認知はどこまであったのかわからないが、冗談のまま突っ走って切腹してしまった。たぶん頭はものすごくいいのだが、だったらメタ認知がないわけはなく、すべてを承知の上で演じていたのか。俺、バカみたいかも? と思ったことはあったのか。あったなら、どのくらい思っていたのか。    

 そのまま疑問を続く。果たしてこの人生は悲劇なのか喜劇なのか。計画通り、思い通りの人生といえばいえる。しかし思いを遂げたにしては幸福そうな気配は微塵もない。橋本治は、当時夕刊紙に載った彼の切腹後の生首写真を見て、「二度と見たくないと思った」と書く。「あまりにも孤独で、可哀想だったから(大意)」。

 人の人生はどうあるべきか、幸福って、満足って、とか考えるのにふさわしい人かもしれない。答えは全然わからない。

 

 橋本は三島の唱える「日本の論理」みたいなものはくどくど解説したり考えたりもしない。あっさりと「彼は昭和なんてだめだ、明治に戻ろう、しかも俺も思う理想の明治に、と思っているがもちろんそんなものは幻想なのだから、あるわけない(大意)」と説明していて、自分で検証してないからわからないが、「あ、そういうことね」と納得してしまった。

 それよりも、三島がどういう人だったのか、ということに焦点が当てられている。それを「私は三島の愚かさについて論じたいわけではなく、三島の悲劇を考えたいのだ(大意)」。おおおおお…と衝撃が走る。そこだよ、私が知りたいのは。三島の家族とその関係、とくに母親と祖母との関係はとても興味深く、そして納得感のあるものだった。家中を仕切っていた祖母の大のお気に入りだった三島は、その束縛をあまり嫌がっていなかったらしい。

 

圧巻の清張vs三島論

”三島は松本清張を自分が選者だった日本文学全集に入れることに猛反対した”くだりは、目が醒めるほど刺激的だった。編集者たちはなぜあんなに反対したのかさっぱりわからず、ということで、本人の言葉もないし橋本の推測なのだが、これが有無を言わせぬ説得力があった。”三島は太宰治が嫌いで、本人にもあなたの小説は嫌いです、と伝えている。おそらく太宰の意思のなさが嫌だったのだろう。だが全集にはすんなりと入れた。しかし清張の全集入りには猛反対した”(大意)。橋本は子供の頃、だからそこの(新潮社だったかな?)全集は買わなかったそうである。「清張が入ってない」。

 しかし、基本的に”世間の人間は誰も三島と清張を並べて考えない”。

 だからそんなに嫌悪する理由は誰にもわからなかった。だが、橋本はそこを掘った。清張は実際の事件をもとに自分なりの推理・調査をして真実に迫ろうとする作家である。そして三島も『金閣寺』や『青の時代』など実際の事件をもとにした小説をたくさん書いた。しかし三島は事件を題材にするだけでほとんど自分の好きなように物語を作ってしまう。”実際何があったのか”には興味はないのである。金閣寺では三島は絶対的なタブーになっているそうで、それはあまりにも実際と違うことを書いたからだ。三島からすると、緻密な調査や推理で真実を探ろうとするる清張と自分を引き比べて見ると、自分のしていることが子供のお遊びのように見えたのではないか…というのが、橋本説。

 すごくスリリングな推察である。丸ごと鵜呑みにせざるを得ない。あくまで橋本の推測だと承知しつつも、三島由紀夫という人がなんだかすごく立体的に感じられる。あれだけ時代のスターになり、生まれも容姿も知能も優れていたけれど、彼にはどうしようもないコンプレックスがあったのだ。虚弱体質だったとか身体が小さいとか男しか愛せないとかそういうものだけでない「ハリボテ」感が。でもこの説の通りだとすると、「三島は自分のしてることを”バカみたいでは?”と思ったことないのだろうか」という問いは、イエス、になる。「俺って…」と片方で思いつつ恥入りつつ、あまりにも恥ずかしくてとうとう「ハリボテなら堂々とハリボテろう」と覚悟を決めたのだろうか。そういえば、アポロン像だけでなく邸宅の中の階段ホールも実際行ってみると奥行きが全然なくてまさにハリボテ感がすごいのだそうだ。

『vs東大全共闘』のなかで、三島由紀夫はどんなに学生たちに茶化されても怒ったりしない。話を聞こう、話をしようとしている。

 瀬戸内寂聴は「優しいのよね、あの人ね、優しいの」とコメントしていたけど、確かに優しかった。あんなふうに自分の信条を若造どもに揶揄されたらイラッときて当然だろうが、彼はそんな素振りは見せない。呆れることもなく嘲笑することもなく。話を最後まで聞き、そして話を聞いてもらおうと努力していた。

 ふと思ったのだが、あれは自分がハリボテだという自覚があったから出てきた優しさなのではないだろうか。もし自分の思想を100%信じていたら、それを馬鹿にされたら冷静でいられないのでは? 彼は学生たちを許していた。それは自分も所詮彼らみたいに軽薄で嘘モノだしな、という諦めというか赦しの気持ちがあったからこそ、なのでは。プロ奢られヤー言うところの「みんな違って、みんなゴミ」という認識があったからこそ、ああいう優しい態度ができたのでは。

 もちろん単なる思いつきです、はい。

 最後、たいていの人は彼の小説と論文にばかり注目するが、劇作家として大量の戯曲を書いていた演劇人であったことに注目したのは橋本治が初めて(たぶん)だったというのも興味深い。その流れで杉村春子水谷八重子との関係を論じた補稿は新鮮で、これはこの人しか書けないのでは。

 

 わたしの頭ではこれ以上はまとまらないので、このへんで終わり。